円丈思い出シリーズ1・・思い出の新宿前座時代

 
 円丈が、まだ前座時代ぬう生と言っていた頃、新宿鳴子坂の3畳のアパートに住み、そして歩いて10分ほどの6代目円生、当時新宿柏木町に住んでいたところから「柏木の師匠」と言われていた。その円生の家まで歩いて通っていた頃、それを振り返ってみた。

  実は東京新聞の取材で昔の新宿のアパートを取材に行ったのでついでに写真を撮り、ここに紹介したわけ。
   三遊亭 円 丈


【3畳のアパートにて昭和41〜2年頃・・決して大正12年の写真ではない】


4500円の3畳のアパートとは?

 

 円丈が住んでいたアパートも当時の師匠の住所も今はみんな西新宿何丁目になったが、しかし昭和40年当時、円丈の住んでたアパートは「鳴子坂」で師匠宅が「柏木町」。ホントに良い町名だったが、でも鳴子坂や柏木町では、土地が高く売れないと言うので欲張りたちが集まってこの辺一帯をみんな「西新宿」と言う町名にしてしまった。
  実は円丈の新作落語「横松和平」で売れない漫才師が住んでたのもこの辺のアパートという設定になっている。この辺は盛り場にも近いので水商売関係の人間が多く住んでいた。そんな鳴子坂の3畳のアパートに前座ぬう生は住んでいたのだ。 室には丈夫な赤腹イモリを1匹飼っていたが、エサもやらずに1年間も生きてた。そんなアパート暮らしでも 10日に一度は前座仲間と徹夜でマージャンをしてその朝、師匠宅へ直行した。その円丈の住んでいたアパートも今は10階のビルになってしまった。

【こんなアパートに住んでいた。今も1本裏通りにはこんなアパートが残る】

 

◎これが3畳のアパート当時の生活(昭和40年夏以降〜47年10月結婚するまで)

家 賃 4500円当時1畳1500円で相場通りの家賃
トイレ、水道共同 ガスは各部屋にあり、隣が共同トイレ。表の飲み屋のトイレも兼ねていたので時々間違って開けられた。
寄席の給金 1日100円!安い。しかしこの頃、まだJRに10円区間も残っていて都電往復25円の時代。ラーメンも50円ぐらいだった。それから1年で50円給金がUPして250円になったところで二ツ目。前座時代は、先輩の落語会に頼まれて行くと500円。地方は1000円〜2000円程度だった。
楽しみ 10日に一度、アパートで前座仲間と徹夜マージャン。土曜日は、オールナイトで徹夜で映画。とにかく遊ぶために寝ないで遊び、朝は師匠の家へ駆けつけた。
貯金 全くなかった。前座1年目に貯金3000円があった。増やすか、ゼロにしようと競馬をやり、ゼロになる。47年結婚するのが決まり、貯金ゼロではみっともないと貯金に励み、やっと10万円!ただ苦しくなると親のスネをかじったので。本当に苦しかったと言う体験はなかった。
金はなかったが、有り余るほどの夢があった。ビンボーな生活でもよく遊び、よく学び、楽しかった。
交通 今は「西新宿3丁目」と言う駅が出来たが、当時はなく、新宿まで歩いて15分、新宿の寄席まで25分ぐらい。なかなか交通の便も良く。そこで仲間が集まってマージャンをやるアジトになってしまった。
食生活  とにかく朝、どんなに腹ペコでも師匠のところに行けばご飯が食えた。師匠のとこでは、ご飯は必ず3杯食べた。その他、先輩にご馳走になる、楽屋のさし入れ、それから大家さんトコに遊びに行ってご馳走とか、食事の7割はタダだった。
ぬう生の1日

 朝9時まで師匠のトコへ行き、掃除のあと食事で寄席に行くまで師匠宅にいた。昼席だと早目に開放され、夜席だと時間まで、寄席のない日は夜まで師匠の家にいた。この自由を束縛されるのが一番つらかった。


こう言う道順で柏木の師匠の家へ通った

鳴子坂のアパートから柏木の円生の家まで歩いて6.7分。交通量の多い表道通りの青梅街道を避け、1本裏道をを通り、鳴子天神の参道を抜けて師匠のところへ毎日かよった。

【当時の円生宅は黒板塀の平屋で庭付きの粋な家だった】
 
【当時の淀橋第一小学校は、今は淀橋中学校に】
当時淀橋第一小学校の正門前に円生の家はあったが、先日行ったら小学校は中学校になっていた。じゃ、小学校はどうしたの?その正門前に黒板塀の粋な造りの家が、円生宅。
【円生宅はこんな家】
 敷地47坪、自然石の丸石の石垣に黒板塀、3段ほどの石段を上がって塀の木戸をガラガラと開けてはいる。庭には飛び石があって、灯篭があり、庭ではゴローと言う日本犬の雑種犬がいた。日当たりの良い廊下があり、師匠の書斎もなかなかのもの。黒板塀の粋な庭付き平屋、ただその粋な円生宅の写真がないのが残念。ホント良い家だった。今は師匠宅の跡地には雑居ビルが建っている。
【昭和42.3年にこの土地と等価交換の申し入れ】
「47坪の師匠の土地とマンション2戸分と交換しませんか?」と言う申し入れがあった。もちろん断るかと思ったらあっさりと了解して。直ぐ近く(100mほど先)の新宿マンションに引っ越した。残念だな。良い家だったのに!今から考えるとマンションに対する憧れが円生にはあったのではないかな。
【地図は師匠の家の前にあった掲示板の地図】

 


 

これが新宿マンション
 この新宿マンションの4階に引っ越した。ベランダに小さな庭のようなものを作ったが、やはりあの黒板塀の家の庭には適わない。このマンションも4.5年で出て。その後、中野坂上のマンションに引っ越した。
  円生は「噺家だってマンションに住める」と言う自慢をしてたけど、円生にとってマンションに住むことは、ある種のステータスだったようだ。でもあんな粋な庭付きの家に住むことの方がズーッとステータスになると思ったね。円生は入門したこ頃から急激にメジャーになり、忙しくなっていった。
  しかし前座って言うのは、人間じゃない。前座と言う別な生き物だね。今思うと楽しい思い出もあるけど、あの前座だけには戻りたくない。前座ってネズミのように楽屋を這い回る生き物。絶対戻りたくない。

 

円生との思い出

【円生との思い出1】
  師匠に稽古してもらって4席目「たらちめ」を師匠に聞いてもらったあと。師匠が知り合いに電話してた。「あたしゃ、ぬう生があんなに急にうまくなるとは思いませんでした」と話してた。えっ、それを聞いてどう思ったか?
「なんだ、今頃気がついたのか?」
  と思ったね。すごい自惚れだね。とにかく師匠は、私の芸を買っていて可愛がられたたね。
【円生との思い出2】
  弟弟子の旭生さん(現円龍師)が太鼓の稽古してその横で私が落語の稽古をしてたとき、師匠がトイレで通りかかり、「おい、旭生!ぬうが落語の稽古をしてて太鼓なんか叩いて邪魔じゃないか!」と太鼓の稽古をやめさせたことがある。旭生さんが、その後しょんぼりしてた。あの時はなんか済まない気がしたね。
【前座当時、角刈りぬう生・良く寝癖が着いてこんな煙突みたいな頭になった。しかし間抜けだね】
【円生との思い出3】
  ある夏の日、師匠が
「これから円朝祭りがあって出かけるからぬう!お前も一緒に来るんだ」
「いえ、結構です」
「なんだ結構とは、円朝って人はあたしの大師匠になる。だからお前も来るんだ」
「いえ、私は行きません」
「なんだ、行きませんとは!」
と怒って一人で出かけた。
  厳しい師匠ならこれだけだって十分破門になる。ズケズケと自分の我を通したけど、それでも円生はなぜか可愛がってくれた。真打の時は披露目を50日間、1日も休まず仕事を断って口上に付き合ってくれた。それで協会分裂の時に「寄席に戻りたい!」じゃ、やっぱ、師匠は怒るなあ。





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