更新日05/02/14明治時代に新聞に載った芸人たち特集!!
かってマンホールの蓋を調べ歩き「マンホールの蓋」と言う名著を書いた林丈二氏。彼とは、狛犬友だちで林さんは、今、私のところに「明治珍聞」なるものをメールで毎日、送ってくれる。実は林さんは、暇があると国会図書館に通って、明治時代の新聞を読み漁り、おもしろい記事をストックしている。それで行く行くはこの「明治珍聞」を本にして発行する予定。それで私のところでまずテスト版の「明治珍聞」が送られてくる訳だ。 なかなかおもしろい記事揃い!そこでこのコーナーではその中から記事に芸人もそこそこ登場するので、「明治の芸人たち」と題して、その「明治珍聞」の一部を紹介することにした。多分「明治珍聞」が出るので。そうしたらぜひ買ってチョーダイ!(円丈) 【明治珍聞だよ】 ◎明治珍聞その1:明治の噺家“えんじょう”大活躍の巻(明治34年中央新聞) ◎明治珍聞その2:芸者編、五十銭の落し紙 ・・・・・・・・(明治14年読売新聞) (注)新聞の文章は一部円丈が、省略・あるいは読み易く変更してあります。 |
芸者編:五十銭の落し紙 「明治珍聞」第 85 号 ・・ 明治14年(1881)9月20日「読売新聞」ヨリ |
「幸どん、ちょっと待っておくれよ。小便(ちょうず)がしたくてたまらない。ここでするから!」 |
明治の噺家“えんじょう”大活躍の巻・
「明治珍聞」第 40 号
・・明治34年(1901) 8月22日「中央新聞」ヨリ |
【明治時代にいた“えんじょう”とは実は女流落語家】
女流落語家 若柳燕嬢(えんじょう)で柳派の落語家。 三年以前、燕嬢が亭主の座光寺(ざこうじ)秀次郎の千葉天郷(てんきょう)といって、田舎を壮士芝居で打って歩いたあげく、仕方がなしに上京して座光寺は川上座へ入り、麻生たま子は若柳で燕嬢と名も仇らしく落語家となり 【活劇 夜の常磐橋】 「しかし裸体同様な風体をして歩いちゃ風俗取締り上よろしくない、ともかく・・」と言うのを遮り、車夫は鼻息荒く、 「風俗がどうだ、こうだって、裸体じゃァねえじゃねえか、エ、いったいオレを誰だと思ってるんだえ、柳派の燕嬢さんの車夫で、梅吉(四十五歳)さんてッたら、知ってるものは知ってるんだ」 口開け(くちあけ)に三年以前、燕嬢が亭主の座光寺(ざこうじ)秀次郎の千葉天郷(てんきょう)といって、田舎を壮士芝居で打って歩いたあげく、仕方がなしに上京して座光寺は川上座へ入り、麻生たま子は若柳で燕嬢と名も仇らしく落語家となり、その燕嬢を朝な夕な、送り迎えしているのだと主人が主人だけに立て板に水さらさら 「こいつ警官を馬鹿にする不届きなヤツ、裸体のかどをもって拘引する!」 と立ちかかると。。 【えんじょう登場の大活躍!!】 先の程から車上で落ち着きはらいたる燕嬢は、やおら降り立ち、深く一礼して 「先ほどから車夫がいろいろ失礼を申し上げてすみませんが、裸体でないものを裸体だとおっしゃって御拘引になるというのは、チト御無理のように思いますが」 と話はじめたがついには 「女が乗ってると思って馬鹿にするのでしょう。あなたも御承知でしょう。今度ハワイにおいて我が同胞が受けた陵辱、あのていの事もひっきょうは同胞たる女子に対して男子が敬意を持っていないから起こることです。いったい日本の警官などは常識に乏しく、人民に対する措置がよろしくない・・」と脱兎の勢いにまかせ、ある時は腕をまくり、ある時は手を振り、久方ぶりの大道演説の大気炎。 先程より黒山のごとく寄り集まッたる野次馬連中がヤンヤの拍手喝采。見附の内外に響き、しばしは鳴りも止まざりけり、燕嬢もやめて早や四年。図らずもここ常磐橋外の長演舌。日本銀行前、燕嬢気炎の場とも註せらるべきにや」(林丈二通信員) 【いや、平成のえんじょうもうれしい(円丈)】 いやいや、えんじょうって名前は漢字が違っても代々正義感が強いんだね。しかしこの役者から女流落語家になったえんじょうは、その後、どうしたのかね。噺家と言ってもやや色物的な噺家だったんだろうね。この明治時代は、柳派は柳だけで。三遊派は三遊だけで別々に興行を打っていた。明治に私と同じ名の“円丈”は三遊派の方だね。しかしこの記事も半分はウソだね。それでわるけりゃ、誇張が7割。まさに明治の記事だ。 |