更新日06/11/08

 今、悩んでますか?大丈夫、私も悩んでる。 そういう人にぜひ読んで欲しい。
ここは芸人円丈ではなく人間円丈、心のページ 
だからギャクがない!こえ〜え!
円丈は悩み続けて来た悩みのプロ・・・・・ここは・・・・・心のページ

 人は表面上を取り繕ってるけどみんな悩むよね。その点円丈はオホン!悩みのプロ!もう悩むのが趣味と思うほど良く悩む。普通の 10 倍は悩むね。しかしここから違う。いつも悩むせいか悩み強い。ちっとやそっとの悩みじゃへこたれない。こんなに悩んでも今までただの一度も自殺を考えたことがない。

 元々好奇心が強く、中でも自分の性格に興味がる。単純で一本気だから、生まれて 60 年自分の心をズ〜〜ッと見つめ続けて来た。それでいつも思う。自分の心を 100 %性格分析してみたい。普通はそう思わないらしいが、私は自分の心の全て見てみたい。
 
  心とはなにか?それは未だに解明されていない。心はいつもシンボリックでタマネギのようにドンドン剥いて行くと最後はなにも無くなってしまうようだ。心はとてつもなく深い、その中心は恐らく空洞だろう。しかし空洞の中にまだ何かがいて、こちらを見てるような・・。お前は何者だ。お前は私なのか?だがやはり返事はない。心とは底知れぬ不可知で不可思議なものなのだ!

 でもだからこそ、自分をもっと知りたい。悩み続けた円丈が、自分の心を紹介するページなのだ。   三遊亭 円 丈

 


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第2回・円丈の手紙

第1回・円丈悩みの歴史

   ◎性格基本情報
   ◎円丈悩み年表

       どれを?

 


円丈性格特徴リスト

第 2章 私を構成する基本的特性

( 4) ( 1) ( 2)( 4) ( 5)。 ( 3)( 6)。 ( 7)( 7)( 4) ( 5) ( 5)( 6)( 7)

円丈の性格基本情報
IQ
平均より、やや低い
運動能力
 かなり低い
性格
 内向的、シャイ
静かで凶暴性あり
感受性
極めて高い
異性
うまく話せない

生活感覚

 極めて現実的
否定的思考か、肯定的思考か
極めて肯定的
底流に流れるニヒリズム
ミーハー度
・・・殆どゼロ
自己愛
・・多分なし!
・・・・・なし?永遠の愛を誓えないなし
発作的?熟慮型か?
・・熟慮型
セルフコントロール
・・かなり高い自己抑制ができる
慈悲の心
・・かなりあり
自己コンプレックス
・・あり
私が存在することに対する認識
…肯定的、
なりたい人
・・偉大な人(影響を与え、影響を受ける人)
マゾ、サド性
・・マゾ。
社会的価値観
・・きわめてラディカル!
道徳性
・きわめて異常とも言えるほど高い
責任感
・・とても強い
親和性
低い
   
   



円丈悩みの歴史



円丈の性格基本情報


【これが円丈出生情報】
出生地
【生活感覚は名古屋人】
 1944年12月10日生まれ、名古屋市内、雁道商店街の写真館の末っ子として生まれる。本名大角弘。生まれた時、既に電話があり、トイレは水洗式で商店街の中で一番早くラジオを買ったと言う、小さい頃はそれなりに豊だったようだ。
  しかし金銭感覚、生活感覚の見栄を張らない衝動買いしない、コーヒー好きで酒を飲まない堅実性は、全て名古屋に生まれたお陰。みんなも名古屋に生まれなさい。
両親
【気の弱い父】
 父は大角姓で先祖は江戸時代は下級武士のようで明治になり新天地を求て屯田兵として北海道に渡った。父の性格は、やや女性的でその上うじうじタイプ。小さなことを気に病む性格で72才でガンでなくなったが、その原因もうじうじストレスから来ていると思う。そのうじうじを実は円丈も受け継いでいる。やはり死ぬ時はガンだろうね。
両親
【面倒見のいい母】
 母の姓は鈴木。栃木県日光の在の地主でかなり裕福だったようだが、祖父が道楽者でついに親から勘当され、貧乏になり、母は13人兄弟でおしんのように苦労したようだ。母の性格は、とても面倒見が良く親分肌のようなこところがあり、そしてやさしい性格だった。
  その母から有り余るほどの愛を受けて育った。円丈の背骨には1本ピーンと母の愛が貫抜かれている。ひ弱でシャイな私が、キチンと成人し、今日までこうして生きられたのは母の愛のお陰だ。これがなければとっくに人生の敗残者になっていたと思う。母に感謝!
遠い先祖
【あらぶる魂・・隼人族】
 本名は大角!元をさかのぼると大角隼人の子孫らしい。南方系で船でやってきた海洋民族で九州鹿児島の隼人一族。その中の大角隼人のようだ。大和朝廷に5回も反乱を起こし、平定された。私には戦士的な要素があり、ややラジカルで反抗的な一面は、遺伝子の中に隼人の血が流れている。私の心には戦って死にたがっている自分がいる。
運動能力
【恥かしくなるほど低い】
 かなり低い!小学校に入る前に3回死に掛かった。その時に運動神経の一部をやられたような気がする。全スポーツがダメで学校時代の体育の思い出はにがにがしさだけだ。
知能指数
【やや低い】
 入学前に3回死に掛かり、医者は、知恵遅れになるので学年を一年遅らせなさいと両親にアドバイスしたほど・・。学校の成績は悪かった。元々悪かったのかもしれないが、ここは病気にせいにしたい。

3人兄弟
【ホントは5人・・2人死亡】

 本来、5人兄弟の末っ子だったが、直ぐ上の兄と姉が、円丈の影法師のように相次いで幼い頃なくなり、母は私の死んだ兄弟の3人分の愛情を注いでなんとか育った。
  もし5人兄弟なら、私は東京の大学に行くコトも経済的に無理だったろうし、噺家にもなれなかったろう。去年、円丈が作った魂のペンダントとは、このなくなった2人の兄弟の鎮魂と母への愛の感謝の印として作ったものだ。


【円丈はこんな性格】
シャイでピュア
【彼が観察し、ネタを作る】
 基本的には根底部分にシャイでピュアな性格があり、少し昔の精神分析学的に言えば分裂気質。一見、物静かでやや冷たそうに見えるが、内面の心はいつも激しく波立っている。「鋭」の部分と「鈍」の部分が同居している。
戦士円丈
【彼が落語をやってる】
 円丈の場合、そのシャイでピュアな部分の上に激しく戦う戦士のような部分がある。この部分が高座の円丈。だから落語をしてる円丈は、大声でガツーンと熱演し、殆ど上がらない。戦士円丈がいるので日常でもよくキレる。でもホントに切れた訳ではない。キレながら冷静に事態を把握している。今まで結構、知らない人間にも切れたが、一度も殴ったことも殴られたことも・まして土下座して謝ったこともない。
 この戦士円丈は、なにかトラブルが起こった時、いつも全面に出てくる。かなり勇敢に有能に振舞う・・・。しかし、土台部分の円丈は、シャイでピュアなので知らないうちに心は傷ついていたりする。弱くて強い・・そして強くて弱い心を持っている。
円丈のコア
【幼子おっちゃん】
 このおっちゃんは、幼児の頃のあだ名。このおっちゃんこそ、円丈のコアの部分。この子に色んな価値観や、モラルを着て大人になった。シャイでピュアな性格は、当然このおっちゃんのもの。
  何かに感動したり、想像力はこのおっちゃんのお陰だ。しかし良いことはふたつない。観察や、書くことに能力は発揮しても対人関係のなると円丈にとめどないストレスと苦痛をもたらす。いわば諸刃の剣。このことで円丈は一生悩むことになる。 
私を見つめる私
【彼は何者だ?私なのか?】
 私の中心は潜在意識化したおっちゃんがいる。ではそのおっちゃんを取るとなにも残らないのか?いや、違う。そのおっちゃんの真下、更に奥深くに私を見つめる私がいる。そのおっちゃんを静かに見つめ続けている。
  どんなに悩み、苦しい状況になっても自己崩壊もせず、自殺も考えないのは、この私を見つめる私がいるお陰だろう。しかしその私は一体何者なのか?よく霊能者が守護霊と言うが、彼はその守護霊か?あるいは心理学の一部で言う「ハイヤーセルフ」(高次元の自己)なのか?心の奥深くのことを理論的に説明するのは難しい。
  私を見つめる私とは、“存在”そのものの私だと思う。円丈の肉体と心を脱ぎ捨てても尚“存在”する私がいる。なんとなくこの存在に気が付いたのが40過ぎ。そして50過ぎて、それは確信に変った。
自己コンプレックス・タイプ
【円丈嫌いの円丈】
 円丈は円丈が嫌いなのだ。自分を愛せない!しかしこれがホントに大問題。正直、芸人世界ってナルシストだらけで自己コンプレックスの私としては、正直気持ちワリーイ。自分ばかり愛さないで少しは他人を愛したらどうなんだと思う。
  でも芸人として大成できない原因の多くがここにある。もう少し自己愛があれば、人間関係をもっと大事にするだろうし、もっと落語に精を出したろう。ただ60才と言う年齢になってやっとホンの少し自己愛が出てきた。しかしその自己愛はあまりにも小さい。


【母親的自己・・円丈さんはやさしい・・?】

【画:橋本悦代さん・・・「大地」】
 どうも体調が悪いと聞き、今年の手拭デザインを使わせ頂いた橋本さんが、この絵を送ってくれた。“大地”それは胎内をイメージしたと言う。いいなあ。母なる大地!母の愛をシャワーのように浴びて育った円丈は、死ぬ時、畳みの上より、草の大地の上でフンワリと死ねたら幸せだな〜と思う。

  どう言う訳か、円丈の普段を知ってる人からよく「やさしい」と言われる。正直、自分がそんなにやさしいとは思っていない。これが普通だと思っている。前座の頃一緒に働いて仲間は「円丈さんはやさしい」と言う。なんで?前座時代、普通に働いていただけだなんだ。特に親切にした覚えもない。よく分らん!死んだ母親もタマに「弘はやさしいから」と言った・・でも母になにもしなかった・・・ゴメン!・・ホントにゴメン。
  かみさんも言う「お父さんはやさしいから・・」・でも普通の亭主だろ?怒鳴る時も多いし、なんで?そして弟子には首を絞めそうな勢いでいつも怒るが、その弟子たちが言う。「師匠はやさしいから・・」なんでだよ?自分でも不思議だ。
  ただこれだけ叱り飛ばすのも弟子になんとかなって欲しい一心で言うだけ。それに円丈の方から破門した弟子は一人もいない。一人辞めた弟子が半ば自分で辞め、半ば破門になったのがいるだけ。まあ、みんながやさしいと言うので「じゃ、やさしいんだろ?」と思うようになっただけ。
  自覚できるやさしさがあるすれば生き物に対するやさしさは母から受け継いだのだと思う。そして敗者に対するいたわりは、自分の遠い先祖、滅び去った一族・隼人族だったせいだと思う。私は負けた者、滅んだものに限りなく同情をしてしまう。それは自分が滅び去った一族で早い話自己憐憫なのだ。 ただ今の日本が冷たすぎると思う。その比較対照でやさしく見えるだけなのではないだろうか?


【父親的自己・・円丈はとてつもない厳しい】

 やさしさは人に良く言われるが、逆に誰にも言われないのが「円丈は厳しい」と言う父親的な側面。社会に対しても結構厳しく批判するが、実は自分に対してはかなり厳しい。自己欲求水準が高くて、その水準を行かないと自分を徹底的に攻撃するとんでもなく厳しい父親的自己がいる。しかし30代の後半から40代前半に軽い鬱状態が数年続き、やがてそれは中程度の本格的な鬱になって行ったが、それは、どうしても出来ない自己を際限なく攻撃し続けて結果だった。このことはあとで詳しく書こうと思う。




これが、世界初、円丈悩み年表!
円丈悩み年表(1)


 
自分の悩みを年表にしたのは、円丈が、初めてだろうね。
この年表は、別に脚色もウソも入っていない。

別に自分を良く大きく見せようとか、いい人に見せようとも思ってない。
いつも等身大。多少なりともカッコいいトコも不恰好なトコもひッくるめて

そのまま円丈で見てもらいたい。コレガ円丈なのだ。


【画像:3才頃のシャイな“幼子おっちゃん”・・もちろん円丈のこと】

出生〜〜真打前まで
 
 西  暦
  出  来  事
 【女の子の良く泣かされる】
1940年代後半・小学校入学前
 この時代に3回死に掛かる。これでややIQが低くなったような気がする。性格は泣き虫で内弁慶の子供、いつも女の子と遊び、主導権はいつも女の子が握り、それに従う、また良く泣かされていた。
 【登校拒否になる!】
1951年小学1年生
 どうも新しい環境に適応するのに時間が掛かるようで1年1学期には朝になると「頭が痛い」とか、「腹が痛い」とか、理由を付けて休もうとした。それが、仮病だと親に分ると今度は「いじめっ子がいるからイヤ」と言い。とにかく何でもいいから学校を休もうとしてた。今で言う完全に登校拒否児童だったが、それでも2学期頃からは学校が面白くなって行きだした。
 【成績悪く、注意力散漫】
1952〜4年 小1〜3年生
 小学校の頃の成績はかなり低い。でも成績には全く無関心で低いことをなんとも思っていなかった。そう成績なんてどうでも良かった。通知表には、良く“注意力散漫”と書かれ、殆ど授業を聞かず、ボ〜ッと他の事を考えていた。
 【ノイローゼになる】
1954 年 小学校 4 年生
 
 それはホントに些細なコトだった。母親が「そんなに遊んでばかりいて、私が死んだらどうするの?」と言われた時、初めて母が死ぬことがあることに気がついた。そしてもし死んだらどうしよう?
  母は私の太陽のようなもの。太陽が亡くなったら、どうするんだ?それでノイローゼになってしまった。全く元気のなくなった私を心配した母は、映画に連れてった。ディズニーの「砂漠は生きている」と記録映画だった。でもおもしろくなかったが、でもそのうちに自然に治った。これが死について悩んだはじめだが、しかしまだ自分が死ぬことなんて考えられもしなかった。 やはり頭悪かったんだね。
【先生に初めて誉められる】
1954 年 小学校 4 年生
 小学校は、勉強も運動もダメ・・その上シャイなので・・目立たず先生から誉められた経験がない。それが小学4年の時、人形劇のセリフはじめて誉められた。内藤先生が言った「アンタ、千両役者だよ」。これからラジオで落語を聞き、やるようになった。たった先生の言った一言が、私の人生を決定した。誉めれたことが、本当に心底うれしかったのだろう。これは悩みとは反対のこと。
【“あけぼの印”があだ名】
1956 年 中学校
中学校は、それなりに幸せな時代だったかもしれない。休む時間にも落語をやったりして、クラスで人気があった。あだ名は“あけぼの印”
【自殺未遂の友だちと死について】
1962 年 高校 2 〜 3 年
 高校時代になり、同級生で2人自殺し、そして自殺未遂の友だちも2人いた。それをあっけらかんと語っていた。しかしその友だちは、ハタから見て悩んでいるようには全く見えなかった。高校時代は自我の葛藤のある時期。私も自我に目覚め、高校2年に噺家を一生の職業にしょうと決めた。
  そしてもうひとつ死へ恐怖を覚えた時期でもある。寝た時にふと死を考えた瞬間、体全体がゾゾゾ〜ッと冷え込み、とてつもない恐怖を覚えた。でもなんとか克服したいと思い、それは折に触れていつも死について考え、40才後半についに死を克服することになる。元々戦士的要素を持っていて、いざとなると死を恐れない部分があったのせいもあるのかも知れない。
【登校拒否大生になる】
1963年明治大学へ
 すでに高校2年で噺家になることを決めていたので名古屋から東京の明治大学へ入学。しかし明治の演劇科の連中は「オレ、今ヒモをして暮らしてる」とか、私なんか幼すぎて肌が合わない。こんな奴の顔も見たくないと思ったら登校拒否大生になってしまった。2年間行って14日しか登校しなかった。少なすぎる。でも本人は行きたいし、行こうと言う気がある!
 でも駅まで来ると通り過ぎて寄席に行くとか、駅を降りるとマージャン屋に行くとか、とにかく2週間しか出席しなかった。でも本人は結構苦しい。今日こそ行くぞと思うけど、足がどうしても大学に向かない。しかし、小1で登校拒否児童になった私は、登校拒否大生に!三つ子の魂百までもだ。人間は同じ過ちを何度でも繰り返す動物だね。
【ホントに噺家なっていいのか?悩む】
1963年明治大学へ
 明治は2年から3年の間に落第がある。単位が取れないんだから落第は確実。それなら中退して噺家になろうと6代目円生の門を叩く。それで円生から正式に入門許可がおりた。
  だがそこで悩んでしまった。本当なっていいのか?そしてやって行けるのか?と悩んだ。いざなれるとなった時、逆に不安になり、どうしようと悩む。人間には結構こう言う部分がある。円丈は、一本気で一直線だが、その反面とても慎重なんだ。そのうちに名古屋の親に「息子さんの入門を許可したが、その後全然来ないがどうなっているのか?」と連絡が入り、慌てて入門した。
【芸人向きでない性格に悩む】
  1967 年 噺家前座時代
 円生に入門でしてぬう生となり、前座となる。しかし演ずること、ギャグを作ること、キャラクターでは芸人向きなのだが、その反面人付き合いがからっ下手でまるっきりヨイショも出来ない。シャイでピュアなゆえ、この性格のことで悩む。
  前座でも明るい性格の奴と付き合い、なんとか明るくなろうとしたがダメだ。そこで「性格は変えられる」なんて本も買ったが変えられない。時々、この問題は時々ぶり返し一生性格では悩むムことになる。ただ前座仲間からは、それなりに信用され、友だちも出来た。
【ヨイショをあきらめる】
 1969年二ツ目になる
 二ツ目になったもどうしても性格は変らない。ついにヨイショはあきらめ、世渡りができないのだから、せめて落語では、ネタでは、受けるので誰にも負けないように頑張ろうと思った。
 でも結果的にこれで良かった。人間努力しても無駄なことがあるもんだ。そんな成果が上がらず悩んでいるのなら自分の向いてる部分を伸ばす方に努力した方が、遥かにいい結果になる。
 【突然・・結婚】
1972 年 10月21日
 仲間の間でも結婚しそうにもないタイプと見られていたので周りは結婚に驚いた。でも本人は驚かなかった。子供が生まれても仲間と10日に一度は徹夜のマージャンをやっていた。とにかく芸人なので、周りから所帯じみたと思われたくなく、独身の頃と生活のパターンはあまり変えなかった。マイホーム・パパなど死んでもなる気がなかった。
【落ち込んだ母の死】
1974 年 母の死
 あれほど愛してくれた母が死んだ。しかも危篤になり、もう意識がないと電話があったが、母の苦しむ姿を見たくなかった私は、競馬場に行き、それから名古屋へ!母は既に死んでいた。生前「弘はわたしが生きてる間はモノにならない・・」と言う謎のような言葉を遺して死んでしまったのだ。
  泣かなかった。一度も・・。その後、あんなに愛してくれた母に何ひとつしてやれなかった。それがとても悲しくて自分が情けなかった。・・でも泣かなかった。それから半年ほど気持ちがドーッと落ち込んだ。仏壇を買い、毎日お経を上げた。禅には以前から興味があり、悟りを拓きたかった。でも悟りを開いた芸人のギャグで客は笑えるのか?と思い。それでお経以上のことはしなかった。
【新作を本格的に作り始める】
  1974年前後 
 この頃、7〜8人のお客さんを集め、テスト・ケースとして自作の噺をやって批評してもらう落語アドベンチャーを始める。あとでその時来てた一人は「オレは、ぬう生(当時芸名)は気が狂ったのかと思った」といった。その半年後に円丈が中心になって落語台本を作る「日本ボールペン・クラブ」をやる。’75年以降に本格化する。
【真打決定でまた悩む!】
1976 年
  6人抜いて2年後の78年真打が決定した。しかし、いざ真打になる時、悩んだ。ホントになって良いのか?このオレが他の真打と本当に戦えるのか?しかし噺家になる時、ホントに噺家になっていいのか?と同じ悩み方なんだ。小学校入学で登校拒否になった私は、大学に入ったら登校拒否大生になったのと同じこと。同じ性格だから同じようなパターンでまた悩んでしまう。これが人間って奴だろうね。



円丈悩み年表(2)

このパートは、真打になってからの現在までの年表。
33才から現在までをまとめたものだ。

画像は、「グリコ少年」で少しブレークしたあとの1981年頃、
この前後、スケジュールも結構忙しかったが、3〜4年は
ホントに新作の没頭していた時期、電車の中でも道を歩いて
いても起きてる時は殆どネタを作っていた。

だが・・売れることで逆に家庭不和を引き起こし、そしてシャイな性格
ゆえ、この後軽い鬱期に入って行き、それは5.6年続くことになる。

しかし鬱でもキッチリ客は、受けさせた。
偉いのか?情けないのか?・・分らん!
いやあ、悩むのが人間だね。

【画像:電車の中でネタを書く円丈、立っているのが一番弟子らん丈】

出生〜〜真打前まで
 
えらいのか

真打昇進〜現在まで
【円丈襲名疲労と落語協会分裂!】
1978 年3〜5月 
 この年円丈の襲名披露が50日行われたが、なんと小さん会長の落語協会を不満だとして、陰で師円生を会長とする新落語協会設立の計画が動いていた。円生、円楽、談志、志ん朝を主要メンバーとした新協会だ。そして円丈の披露目が終わるのを待って落語協会は分裂した。
  しかも円丈はこのプラン自体知らされず、披露目が終わった瞬間。分裂し、新協会員は寄席に出られなくなってしまった。そんなのねえよ。新しい協会名は三遊協会となった。しかし志ん朝師、談志師は直ぐ戻った。おい、そんなのねえよ。
【協会分裂のトラウマ】
1978 年 
 真打になってなんとか売り出そうとしてた円丈は、披露目が終わった瞬間、寄席に出られなくなった。全くついてない。私は師円生に何度も「出来れば落語協会に残りたいと思います」と何度も懇願をしたがしかし「何を言ってるんだ、この恩知らず、義理知らず・・」と100回以上罵られた。師匠にここまで言われると本当につらい、これ以上言われたら心が死んでしまう。
  そこで泣く泣く円生に従い協会を出ることになった。自分の生き方は自分で決めるのを信条としていた円丈は、この時だけ屈服されてしまった。しかしその事件が心のトラウマとなり、円生を心の奥深くに封印してしまった。それは「ご乱心」を書くまで続いた。渋谷ジァンジァンで実験落語を開始したのもこの頃。 
【師円生、死去!落語協会に復帰】
1979 年9月
 師円生は翌年の79才誕生日に死去。そして'80年正月から落語協会に復帰。この時に出来たネタが、大阪吉本の東京進出をテーマにし、分裂騒動も皮肉った「パニックイン落語界'79」
【円丈「グリコ少年」でブレーク!】
1980年9月
 この年、池袋演芸場で「円丈三題噺」(前日お題を3つ客から貰い、翌日。20分程度の落語に仕上げ、その日に面白いか、どうかの判定を投票で決め、9勝1敗の成績)。その直ぐあとに「グリコ少年」で大評判になり、フジTVの「花王名人劇場」でオンエアされ、漫才ブームと一緒に夏以降、突然、マスコミから脚光を浴びる。
【ブレークしたら家庭不和、なんで?】
1981年
 やっとブレークしてホントに忙しかったが、それでも電車の中では立ってでもネタを作り続けた。なんとかやっと少し世間にも認められた。少しホッとした。ところが皮肉なもので今度は家の中がおかしくなって来た。かみさんがおかしいのだ。突然売れたしまった亭主がドンドン自分から遠くへ行ってしまうよな疎外感で不安になり、ノイローゼ気味。
「金は要らないから、家にいてくれ」「そんなの無理だよ」
  やっとなんとか売れたと思ったら今度は家庭不和?そんなのねえよ。それからかみさんに運転を覚えさせ、スケジュール管理をさせ、なんとか一体感して、ことなくをえた。普通ん戻るまで1-2年掛かった。
【長い鬱の始まり】
1984〜5年
 この頃から軽い鬱症状になり、5-6年続く。とにかく対人関係が、下手で・・。普通の人が簡単に出来ることが、どうしても出来ない。すると自分の中にいる父親的自己がもうひとりの自分を激しく責める。
「なんでこんなことが出来ないんだ?」
 しかもこれが少しずつ強くなる。それでも高座は普通に勤め、結構沸かしていた。でも降りると落ち込んだ。
【都営から一軒家に引越し】
1986 年 
 都営住宅を追い出され、近くの同じ足立の一軒家に引っ越した。2番弟子の白鳥が入門してきたのは、引っ越してから。
【死の克服】
1987 年
 高校時代からなんとか死を乗り越えたいと思っていた。そしていつもどんなに恐くても死の瞬間までそれを見つめたいと思っていた。折に触れて死のことは考えていたが、この2.3年前から宗教書、心理学の本、科学書を読み漁り、ついに長年の彼岸、死の恐怖を克服した。
  これ以後全く死に対する恐怖心はなくなった。それは円丈なりの宗教観の確立がバックにある。小さい頃の鉄アトムの好きだった科学少年は、神秘主義者になった。その後も死生観は少しずつ変って行ったが、基本的には禅的な世界観にとても近い。円丈にとって“死とは、無の故郷へ帰る”・・ただそれだけのコト!時々思う故郷に帰りたいと・・でもそうも行かない。
【本格的な鬱と脱却】
1988年頃
 死の恐怖は克服した直後、長年の鬱が遂に本格化した。全く皮肉なことに死ぬことより、生きることの方が、どれほど大変なコトかを思い知らされた。ホント惨めで自分が全く馬鹿に見えてきた。生きること・・生き続けることはホントに難しい。
鬱は一段と進行して家族や弟子の前で普通に振舞えなくなって来た。これ以上鬱を隠し通すことが出来ない!心には何時止むともなく鬱の雨がシトシトと降り続ける。 もうこれ以上、この鬱はほっておけない。そこで治そうと決意した。心理学の本も5〜60冊は読んでいたので多少のことは分かる。そこであることを実行してみた。この辺のことは、あとで詳しく書くつもりだ。
【隼人族それは・・反逆の血】
1992年前後
 私の中でどうにも納得出来ないことがひとつ。それはわが心の中にある反抗心。なぜこれほど強い反抗心が自分の中にあるのか、どうにも理解できない。
  母はやさしい人だったし、小さい頃はそれなりに満たされた幸せな家庭環境で育った。なのにこの強い反抗心。どう考えても分らない。
  そしてこれは遠い先祖、隼人族の血のせいではないだろうか?九州の隼人族は、大和朝廷に対し、5回も反乱も起こした一族。戦いはゲリラ戦術でとても強かったので朝廷側は、捕らえた隼人を戦士をとして送り込み。隼人族同士を戦わせた歴史があるほどだ。どうも私の心の隼人は、今も心の中で戦っているのではないのか?こんなことを何時までもしてていいのか?そこで私は天皇に服属をしてしまおうと思い。明治神宮に参拝に行くことにした。・・そこで一体なにが起こったのか?・・ながくなるのでこれは、あとでゆっくり書くことにする。いやあ、楽しみだね。なにが?
【猫は犬になれない・心チクチクします】
1990 年代
 この頃になると人生って自分の中にある残された問題を宿題のようにひとつひとつ解決してゆくことではないのかと思うようになった。私に残された未解決の問題は・・。“猫は犬なれない”と言うことだ。私の心に中には、なんとかしてみんなと仲良くなりたいと思う強い心があるのに、ところが持って生まれた性格でどうしてもそうなれない。
 みんなと仲良くなれる心があれば、もう少し社会のお役に立てる人間になれるのに・・どうしても対人関係が上手く行かない。心が直ぐチクチクしてしまう。相手の人にあんなことをしてまずかったかなと思うと心がチクチク!円丈は、親和性が低いのだ。そう、親和性が欲しい!
  しかしどんなに望んでもそれは得られなかった。それは、猫は犬になれないようなもの。すると私は、犬になりたい猫なのだ。そのことを周りは馬鹿じゃないかと笑ってしまうだろう。だが本人に取って、それはとても深刻な問題なのだが、絶対乗り越えられない壁なのだ。結局、それが人間円丈の限界なのだ。人でも動物でもあらかじめ決められた以外の生き方しか出来ないと言うことだろう。
【老いへの拒否・死ぬ日を決めてくれ】2004 年 

 去年還暦を迎えて60才!しかし。正直、長生きして老醜をさらしたくない。これは母も言っていた年寄りを見ると「あんなになるまで生きたくないね」が口癖で67才で死んだが、きっとオフクロは丁度良かったんじゃないだろうか?母と同じで老いることだけは許せない。しかし許せなくても年は取る。寿命のある間は元気で明るく生きていくしかない。いっそ、死ぬ日が分っていたらいいのにと思う。そうなったら1秒残さず見事に生き切ってやると思うけど・・。死ぬまでにもう一度、落語にハマって、円丈落語をある程度完成させてから死のうと思う。

◎既に5-6分のストックがあるのでなるべく早く2回目を更新する予定。


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