〜なぜ落語家に?どのようにしてなったのか栄光への道?〜
 円丈は、どうして落語の道を歩むことなったのか?果たして普通の人と違うのか、それとも変らないのか?
 実は噺家になった原点。それは担任の内藤先生に人形劇で「アンタは千両役者だよ」と誉められたのがキッカケだった。 三遊亭 円 丈

(5年の人形劇ベロを出してるのが私)


【円丈落語家年表・・その1】
  生まれてから噺家になるまで
1944年
 名古屋の大角写真館の次男として生まれる。 本名大角弘
解説  戦争末期の昭和19年12月10日に生まれる。名古屋市瑞穂区雁道の写真館の子として生まれる。父も母も写真業でマジメ人間。また親戚にも芸事をしたり、芸人になったものは一切いなかった。そう言う意味では突然変異か?
  しかしこの年の有名人では、椎名誠、久米宏、故横山やすしなど。少し社会を斜から見るタイプが多い。かく言う私もそう。胎児でいる時、母親が不安がると子供は、やや社会に対し批判的に子供になると言う説があるがそうかも知れない。
1948年  ジフテリアで危篤になる
解説  入学前に2〜3回、大病し、死にかかった。実は我が家は5人兄弟だったが、終戦後のもののない時代、すぐ上の兄と姉が、病気で死亡している。私も3回、危篤になり、うち1回は幻覚を見た。その時は「この注射が聞かなければこの子は助かりません!」と言う本当の危篤状態。
  そのあと医者は、両親に「この子は42度以上の高熱を出したので知恵遅れになります。学年を一年遅らせて下さい」とアドバイスしたがそのまま小学校に入学させる。そのせいか、とにかく成績が悪かった。
1948年  4才.ままごとゴッコでお父さんを演ずる
解説  演ずる能力は、ソコソコあるように思う。今でも覚えてるのは、ままごとで「お父さん、お仕事行ってらっしゃ〜い!」と送られてから、仕事をする真似事をしなきゃあと思い。誰も見てないのに製材所で板を電動ノコギリで切る真似をしてた。誰からも教わらなくてもそう言うことが自然に出来るタイプの人間のようだ。
1949年  不二劇場で落語を生で初めて聞く(5才)
解説  名古屋の柳橋に不二劇場と言う踊りの演芸を売り物にする小屋があった。母親が私を連れていった。そこで生まれて初めて落語を聞いた。5才の子が大笑いしたら伝説ができたんだけど。しかし子供にとって落語はつまらない。だったズ〜〜ッと座ってるだけだもん!もう退屈で死ぬかと思った。奇術は面白かった。ただ出演者で「馬の助」と言う芸名が、「ヘンな名前?」と妙に印象に残ってる。とにかく親戚が来ると一緒連れて行かれ、それ以後の小学1.2年まで2.3回行った。いやあ、ホント退屈だったなあ。
1951年 小学入学、最悪の成績!
解説  病気の馬鹿と元々馬鹿で成績は悪かった。66人中45番以下!しかし成績自体に全く興味がなかった。成績が悪かったが、一度も学力コンプレックスになったことはない。基本的IQが低いタイプ。今もそうだが別になんとも思わない。じっくりゆっくり深く考えることでは、負けない。ただこのIQがもっと高ければ別な職業を選択していたと思う。そして入学式の時、大泣きした。感受性の強い、環境変化に弱いこだった。あっ、今もそうか..。
1952年 小学2年の通知表に「注意力散漫」
解説  通知表の連絡欄に「注意力散漫」、たしか5年生の時にも書かれた。成績も悪く授業中、ボケッとして関心のない授業は全然別なコトを考えていた。しかし授業中ズ〜ッと別なことを考え続けられるのはスンゴイ集中力が必要。私には集中力がある。まあ、それぐらいだから母はいつも「ヒロシは夢みたいなことばっかり言ってつかみどころがない」と言っていた。そりゃそうだ。夢だけ考えていたんだから。
1955年  小学5年、人形芝居のセリフを先生に誉められる
解説  もう小学生の時は馬鹿でこの時初めて「アンタは千両役者だよ」と誉められた。内藤先生だった。ほんとうれしかった。多分この一言が私の人生を決定したのだと思う。内藤先生ありがとう! こういうコトが人から誉められる。それで「落語なら一人で出来る」とラジオで覚えてやるようになった。
1955年  小学5年遠足のバスの車内で初めて落語をやる
解説  この時の他の生徒の反応は「へえ、落語をやって結構上手いなあ」と言う反応だった。 でどんな落語だったのか?ラジオで落語を3.4本聞くとそれを適当につないで混ぜた。でウケナイと飛ばしてやった。適当に覚えて適当にやっただけキチンと一席覚え出したのは中学に入ってからだった。
1956年  小学6年ラジオで盛んに落語を聞く
解説  大体、落語を聞き出して面白くなったのは小学校5年ぐらいだね。六年生は落語を良く聞いた。金馬、志ん生師なんて好きだった。それから三平師も面白かった。
1957年  中一でついに落語全集を買う。金園社全3巻!
解説   どうもラジオで覚えたのでは、同級生をごまかしきれなくなって。ついに金園社の落語全集全3巻を購入。
  一冊で50ほど落語が出ていたから計150ほど。なかなかお得な本だった。 これでキチンと覚えるようにした。

(その落語全集の目次。覚えたい落語を鉛筆で囲み、覚えたネタにはチェックが入る。「こえ瓶」は覚えた)
1858年  この頃のあだ名あけぼの印
解説  どうもボケッとしてたからあだ名が「あけぼの印」。魚肉ソーセージがあけぼの印。時代だねえ。クラスでなんかあると「大角、落語やれ!」とやらされたが、同級生は結構笑っていた。自然に感情移入が出来て芸がクサイんだね。わかり易い芸だったんだろう。
1959年  中三の時、コントの台本を製作する
解説   この時、私が台本を書き、3人で「生徒と先生」のコントをやった。で内容は?..聞かないで!実はあとになってこの時の台本の一部が残っていたが、もう読み返すとホント恥ずかしい。情けないようなコントだった。
1960年   高校入学し、演劇部に入部
解説  落語研究会があれば入ったけどない。そこで多少似てる演劇部に入部。初めての劇が「乞食の夢」と言う3人しか登場人物がいない30分ほど劇。
1961年   演劇部部長になる。舞台監督で高校演劇の予選を勝ち抜く
解説  無理矢理部長をさせられた。でも新入生加入の演説では、ドカンと受けさせた。それが面白いと言って一人入ってきた!しかし実権は3年生の田口先輩が握っていて私は裏方で出してもらえなかった。形は舞台監督だが、その実態はリヤカー引っ張ってて。材木を買ってきてのこぎりでギーコギーコの裏方仕事。 ところでこの先輩はその後、早稲田の演劇科に進んだ。20年以上前のことだがタレントの関根恵子が、カンボジアに男と掛け落ちしたことがあるが、その時一緒に逃げた男がこの先輩、やるねえ!このこの〜っ!
1961年   覚えた落語十数本
解説  覚える落語も段々増えてきて。自分の勉強机のイスの背もたれに一本落語を覚えるとナイフで傷つけ、最終的には18本ほどになった。以前より覚え方のきちんとしてきた。しかしこうして覚えた噺もプロになった瞬間忘れた。
1962年  落語家を志す!
解説  落語は好きだったがプロになる気はなかった。せっかく生まれてきて落語家で一生だと物足りない!ホント自分も分らず大きなことを考えていたんだね。頭さえ良けりゃあ科学者だね、さもなきゃ小説家、この辺だ。でも頭が悪かった。古典落語も好きだったが、だれでもやる古典じゃイヤだ!!贅沢だね。そこで自分しかやらないオリジナルの新作落語をやるんだと決める。両親に言ったら猛反対!それでもなると1年以上言い続けた。結局、私の粘り勝ち!
1962年  落語台本「宇宙人現る」でNHK台本に応募、見事落選!
解説  NHKで落語台本募集してたので応募することになった。おやじが、どっかの盗作ではと疑って一度やってみろと言われ、その落語をやったら、おやじは心配そうな顔をして聞いていた。その中身?いやいや、ホントお恥ずかしい。もう人さまに言えるようなものじゃないね。しかしその年、優勝した作品も大したコトなかった。
1962年  この頃、良く鏡をみて仕草の研究
解説  よく自分の顔を鏡に映しては色んな表情をしたり、手拭をまいて「アラビヤのロレンス」とか、「ナメクジが塩掛けられたとこ」とか、いろんなことをして楽しんでいた。これはプロになるまでズ〜〜ッとやっていた。だからもっとあとの世代ならコントに行ってたと思う。
1962年  ついに円生全集(全十巻)を購入
解説  初めて円生をテレビで見て衝撃だった。芸に円生リアリズムのようなものを感じた。正直笑った訳ではない。でも衝撃だった!
  弟子なら円生だ、こう言う芸のしっかりした人に入門すれば間違いないと思った。そこで「円生全集(全十巻)」定価一冊450円を購入。なにか急に落語の知識レベルが上がったような気がした。
  (円生全集全10巻(青蛙房)昭和36年(1961)刊..その後更に別冊として3冊出版
 
1962年  東京の大学へ行くで両親と決着
解説  写真館の両親は、兄は出来が良かったため、出来の悪い方の私を写真屋の跡取にしよう!と決めていた。だれがそんなもんやるか?私は「落語家になる!」。両親は「写真屋になれ!」の堂々めぐり。 そしてでた結論が「大学に行け!」そこで私は「東京の大学以外は行かない!」
  もう東京に行けばこっちのもんだと思った。そして実際そうなった。意見が違う両親でもズ〜〜ッとあきらめずに言い続ければ何時かはあきらめる。やっぱり粘り勝ち!
1963年  明治、日大、中央、東洋、法政5校受け、全部受かる
解説  大学5校と言っても全部一倍低い倍率の文学部。とにかく少しでも落語の足しになる演劇科を!本当は早稲田の演劇に行きたかったが学力が低い!そこで明治の演劇科へ。5校の内で一番やさしい筈の東洋大だけ補欠合格。理由は前日解放感からタバコ100本ほど吸い、当日頭がクラクラしてた。それが理由だね。
1963年   明治大学文学部演劇科入学。2年間で通った日数が2週間!
解説  どうも演劇科になじめずに登校拒否のような症状。電車にはのるけど素通りして新宿へ。映画を見たり、寄席に行ったり、結局、2年間で14日間しか授業を受けなかった。
1963年  上京し、知人に故柳家つばめ師を紹介される。
解説  知り合いで「おれが噺家を紹介してやる」と言う人が出てきて。故柳家つばめ師匠を紹介してくれた。しかし別に頼んだわけでもないのにおせっかいな人がいるもんだ。 「もし私がいやなら師匠の小さんを紹介してもいい」と言ってくれたが、お願いする気はなかった。
  そこで 「君は誰が好きなんだ」 「円生です!」 「ではそこに行きなさい!」 「はい、そうします」 そして別れ際、 「もしこれから先、君がプロになって楽屋で会ってもお互い全くの赤の他人だからね」と言って別れた。後に楽屋で何度もあったが、お互い最後までそのことを話したことはなかった。多分、つばめ師匠は分っていたと思うけどお互い口が固い。つばめ師がなくなり、今ここにカミングアウト!なにがカミングアウトだ!ええ、先月覚えたもんで..。
1963年  下宿の押し入れで落語のケイコ
解説  下宿は家賃を節約するために2人で借りていたので、落語の稽古をする時は、押し入れに入りやった。時々10人ぐらい集めて落語をやったがソコソコ受けた。花はないけどフラのある人間なんだろうね。考えたら前座の時もソコソコ受けてた。
1964年  円生の門を叩き、門前払い!これが「師匠オルキャー伝説」!
解説  この春、新宿柏木にある円生宅へ行き、門前払い。上げてもらえなかった。当時のお手伝いをしてた生之助兄のおかみさんは「師匠おるきゃ〜あ!」と言って私が入ってきたと今も言う。言ってません。もうず〜〜と水掛け論!
1964年  万全を期し名古屋ういろうを持って再び円生宅!上げてくれた
解説  夏休み名古屋に帰り、8月上京し、その足で円生宅へ、 今度は抜かりなくみやげの「ういろう」持って挨拶!ついに上げてくれた。入門は目前!
1964年  円生門下、入門競争率2倍の難関を突破!
解説  この時もう一人、入門者がいて噺を教えて良い方を取ると言うことになり、「八九升」と言う噺を教えてくれた。これがテストの落語。もう一人は26才の男で仕立て屋をしていた。とにかく私が残り、おやじが挨拶に行き、それで正式に入門を許可された。芸を認められたと言うより、おやじの人柄をみて「このお父さんの子なら良いでしょう」と入門を許可されたらしい。
1964年  12月に入門。ぬう生となる。
解説  この年は東京オリンピクに年で甲州街道で金メダルのとった裸足の王者アジス.アベベのマラソンを見てから弟子入りした。12月4日のことだ。まもなくぬう〜としてるのでぬう生と名がついた。しかし「注意力散漫」「あけぼの印」「ぬう生」!やっぱ、ボケ〜〜〜ッとしてたんだね。
  こうして愛想のない。気の利かない前座ぬう生がこうして誕生した。 そのあと地獄の前座生活の4年間と続いた。

こうして前座になりました!

【円丈落語年表・・その2】製作・・稲田和浩 噺家になってから現在まで。

1969年(S44)

ぬう生のまま二ツ目昇進。関東学院大学、落研の講師となる
TBS落語勉強会のレギュラー

1971年(S46)

「日立ぬうちゃんの会」を開催、日立家電の落語クラブの講師となる

 1973年(S47) 円丈現夫人と結婚

1973年(S48)

「新作落語研究会、落語アドベンチャー」(中央区の会館会議室)を主催
長女亜津子誕生

1974年(S49)

ペンネーム池坊卓也を名乗る
「池坊卓也・現代落語発表会」(発明会館)を開催
 円丈母チトセ死去・・仏壇を買う
 長男有司誕生
※「競走馬イッソ−」「わからない」などを発表

 1975年(S50) 足立の都営住宅保木間第4に引越し

1976年(S51)

日本ボールペンクラブを結成
※「失われたキンタマ」「恐怖のNHK」などを発表

1977年(S52)

第一回「実験落語」を開催(発明会館)
※「下町せんべい」「新宿の女」作・きくち1040、「即興詩人」を発表

1978年(S53)

真打昇進。初代三遊亭円丈を名乗る
落語協会分裂。師圓生は三遊協会を設立。円丈ら一門は師に従い、落語協会を脱会する
「実験落語」を清麿らと渋谷ジァンジァンへ移す。7〜8月は土曜深夜公演。9月以降は隔月の日曜昼公演となる
※「作家地獄」「ペダルはサドルを待っている」を発表

 1979年(S54)

三遊亭圓生死去、同日に上野動物園のパンダ死亡
この頃よりワッペンスタイルが定着。
※「ぺたりこん」「パニックin落語界80」など発表

 1980年(S55) 三遊協会解散。円楽一門を除き、落語協会に復帰
フジTV「花王名人劇場」にて「グリコ少年」放送
池袋演芸場のトリで三題噺を十日間開催
阪神掛布選手とキンチョ−CMに出演、吉野家のCMにも出演
※「インドの落日」「稲葉さんの大冒険」「国際噺家戦略」「悲しみは埼玉へ向けて」
「ブラックザウルス」「パタパタ」など発表
 1981年(S56) フジTV「放送演芸大賞」でB&B、鶴太郎らを抑え、最優秀ホープ賞受賞
紀伊国屋ホールにて「ギャグを訪ねて三千里」を公演
一番弟子三遊亭丈々寺(現らん丈)入門。
「実験落語2周年イベント」行われる(アウトドア落語会、三枝VS円丈、超実験落語など)
LPレコード「リハビリテーション」を発売
※「燃えよジジババ」「可哀想なウンコに香典」を発表
1982年(S57) 池袋演芸場にて「プロレス大会」を十日間開催
「円丈独演会」(池袋スタジオ200)を定期的開催。「実験落語」のネタ再演などを試みる※「呪われた歯」「パパラギ」を発表
1983年(S58) 「共栄ニコニコ寄席」で世界チャンピオン渡嘉敷勝男と3R戦う
映画「だいじょうぶマイ・フレンド」(村上龍監督、ピーター・フォンダ主演)に出演※「キンタマ自殺」「ムムムム」を発表
1984年(S59) パソコン落語を寄席などで口演、アスキー特別賞受賞
1986年(S61) 「実験落語」解散!都営住宅を追い出され、足立・六町に円丈御殿?が建つ
協会分裂の真相を綴った「御乱心」(主婦の友社)がベストセラー
二番弟子三遊亭にいがた(現・白鳥)入門
1988年(S63) 円丈シナリオのRPGゲーム「サバッシュ」発売
1989年(S64) 渋谷・ジァンジァンにて、正月公演
※「肥辰一代記」など発表
1990年(H2) 三遊亭小田原丈入門
この頃、ホーム・ビデオに凝る
1991年(H3) 文芸坐ル・ピリエで「応用落語」開催。月一回、小ゑん、新潟、昇太、喬太郎、彦いちがレギュラー
※「臨死体験」「横松和平」など発表
1992年(H4) 三遊亭ぐん丈(現・ガッポリ建設、小堀)入門
※「ランボー怒りの脱出」「稲穂の絨毯」「金さん銀さん」を発表
1993年(H5) 「応用落語祭5DAYS」開催
円丈シナリオのRPGゲーム「サバッシュU」発売
※「一ツ家ラブストーリー」作・稲田和浩「イタチの留吉」を発表
1994年(H6) テレビ朝日「カクレンジャー」にレギュラー出演
「応用落語」解散
※ 「12年の年賀状」「10倍レポーター」など発表
1995年(H7) 「第二次実験落語」開催、すぐに終了
「狛犬コレクション」(立風書房)上梓
1996年(H8)

「円丈百番勝負」(渋谷・ジァンジァン)隔月一回
「日本参道狛犬研究会」(こまけん)を創設
三遊亭らん丈真打昇進。※「タダスク」作・木下真之を発表

1997年(H9) 三遊亭天どん入門
1998年(H10) 初代愛犬ロッキー病死
※「烏婆の伝説」(作・市川俊夫)など発表
2000年(H12) 渋谷ジァンジァン閉鎖
人形劇場プークにて「新作落語2000」開催。毎月一回
綾瀬稲荷神社に石工八柳伸五郎、石定による「落語狛犬」を建立
二代目愛犬ロッキー轢き逃げ事故で死去
春風亭えびー太(現・亜郎)が小朝門下から円丈門下へ
※「アンタの聖家族」「藪椿の陰で」「わたし犬」など発表
2001年(H13) 「新作落語2000」を「落語21」と改題
CD「円丈コレクション」シリーズを発売開始
三遊亭白鳥(新潟改め)真打昇進、三遊亭かぬう入門
※「哀しみの大須」「ランゴランゴ」「振り返れば」など発表
2002年(H14) 落語協会監事に就任
※「東京足立伝説」「土下座王」など発表
2003年(H15) 弟子の亜郎が帝劇「レ・ミゼラブル」に出演、一門で総見する
※「金融道イブ」「マタギの里」など発表
2004年(H16)

陣羽織風新着物で登場
池袋演芸場にて「還暦前夜祭
「円丈還暦まつり」を国立演芸場で行う。
※「月のじゃがりこ」「星を掴んで」発表



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