彫刻師栗田剛とは?

 
木彫り彫刻師栗田剛氏と私(円丈)は小中学校の同級生なのだ。彼とは2回同じクラスになったが、私はボンクラ!彼はいつも5番以内の成績だった。栗田家は代々木彫り職人の家。彼は現在4代目!
「職人は作品に名を記してはいけない。ただ”イイ良い仕事だな!”と言われればそれで良い!」と昔堅気の職人の一面を持つ。その彼をここで紹介しようと思う。さあ、君の家の玄関に仁王を立てる時は栗田氏に頼みなさい。
    三遊亭 円 丈

3代目の父と仁王さまと一緒!!
   なつかしの一枚...昭和26年、名古屋、雁道にて

(右上、3代目父三郎、下裸足の栗田くん。左上、馬車屋のおじさん、下が仲介役仏壇店の番頭さん)
 
【3代目父三郎ニッコリ。4代目ムッスリ!】
 名古屋と言えば大須観音。3代目栗田三郎は昭和26年その大須観音の仁王像を彫り上げた!
運ぶ時に学校にいる栗田くん(4代目)を呼びに来た。
  実は栗田クンの家は学校正門のまん前、大急ぎで来たので裸足!だから栗田くんは不満そうにむくれた顔!一方、父三郎氏の晴れやかな顔。恐らく一生の内に一度か.二度しかない大仕事だったにちがいない。その表情からは作品に対する自信と満足感とそして職人の誇りのようなものが伝わって来る。
  しかしこの写真、たしかうちの親父(写真館主)が撮影した筈。いやあ、父の写した写真を噺家の息子が、画像調整をする。世の中、不思議だ。
【左上は仁王さんを運ぶ馬車屋のおじさん】
 まだ馬車が活躍してた時代だね。左上にいる馬車屋さんはベルトの代わりにヒモを通している!まだまだ日本は貧しかった。この仁王さんは馬車に揺られ、パカパカと大須に向かったのだ。ノンビリした時代だね。
  栗田くんは、この馬車馬の腹の下を通って遊び、時々くぐった瞬間、馬にオシッコをかけられたと言う。私は恐くてそんなことをしたことがない。
【小学校の栗田くん】
 小中学校当時の栗田くんは、勉強が出来て正義感のある、やや我の強い男らしい子だった。別にお世辞抜きで!一方、円丈は成績が悪く、体も弱く、絵の下手な内気なやや浮世離れした少年。これもギャグ抜きで本当の話。良くオフクロから「お前は夢みたいなことばっか言って!」と言われた。

 

 2代目鎌吉のもうひとつの職業噺家
 
 なつかしの一枚...大正?年、名古屋大須文明館にて
【昼は彫刻師鎌吉、夜は噺家桂文作】
初代は栗田玉吉。2代目鎌吉は昼は彫刻師、夜噺家の二足のワラジを履く生活だった。
その当時、名古屋在住の噺家。桂文福に入門し、桂文作の芸名で昼は彫刻師。夜は寄席で落語家の2足のワラジを履く、遊び人の職人でもあった。
【どんな芸人だったのか】
 桂文作は、6尺(1.8m)の大男でアダナ「千金丹」。得意の噺は『尻餅』、餅を突くその音がホントの餅つきに聞こえたそうだ。名古屋人の鎌吉は、落語も名古屋弁で「え〜〜、落語をやるでよう聞いたッてちょう!ご隠居さん、おるきゃあ」とやっていたそうだ。
写真は、仲間の芸人と名古屋の劇場、文明館前でにわかを演じてるところ。 しかしベンチ相手に相撲!実際どう言うギャグをしてたのか、ぜひ見たい......が、なんせ大正時代のコトだから。

 


(左より、2代目鎌吉(桂文作)、桂文馬、秋之家双遊、大正年間、文明館?でにわかを演じてる最中)
【父三郎は鎌吉のところに養子に行った】
 実は父三郎氏は、4,5才の頃、2代目鎌吉の養子で栗田になった。鎌吉は遊び人ではあったが、とても愛情深く可愛がられて育ち、小学校を卒業して三郎は初めて自分が養子であることを知ったほど。今、実の我が子を虐待する親たちに教えてやりたい。そして鎌吉は昭和元年に死去した!
【本当は武士!!】
 栗田くんは父三郎は、増田と言い元々は増田家と言う武家の出。一時は350石を取り、熱田奉行までしたなかなかの家柄。明治以後、やや家が傾き、父三郎氏は栗田家に養子になったと言う。


 4代目栗田剛作品集
 
   これが作品だよ〜〜〜っ

 ここでは彫刻師栗田剛氏の作品を取り上げる。しかし取り上げる資格が全然ない。なぜか?
(1)彼の作品の実物をひとつとして見てない。マズイよね。
(2)狛犬ならともかく木彫り彫刻に対する知識が全くない。
(3)だから鑑賞眼がゼロ!!
  ホント書いちゃあいけない。しかし他に書く人がいない。そこで書いた訳。
  栗田氏は、今まで美術展などにただの一度も応募したことがなく、故に賞とも無縁の男。それは同時に「職人は偉そうにそう言うことはしてはならない」との職人気質の現れでもあると思う。
  【栗田剛の作風】
 なんて偉そうなことは書けないけど書いた!彼の作品を理解する上で重要な発言を聞いた。彼は言った。
「左甚五郎など、世間で良いと言うのは彫りが深すぎてチッとも良くない!」
その意見とカラーコピーを通してなんとなく見える作風は
 あまり深く彫らず、やや控えめにあっさりと表現するのがイイ!
 これが彼の彫刻に対する、いや、職人栗田家に流れる作風ではないのか?全然違うかもしれない。でもまあ、いいか (円 丈)

【僧形文殊菩薩像3尺3寸(1m)...
     能登 総持寺祖院平成12年の作】
 文殊菩薩は、獅子の上にいるので有名だが、仏像鑑賞のポイント!それは顔!岡崎に人間国宝の石工がいて顔以外のすべてを他の石工が彫り。顔だけを人間国宝石工が彫ると言う話を聞いたことがある。それほど顔が重要だ。
  しかし送られた来たのが、カラーコピーで前から照明をベタッと当てた写真。なんとなく穏やかそうな顔をしてるが、正直小さすぎて良く分からない。ただ下の獅子はなかなか良い。この獅子だけを1対にしてどこかの神社に飾りたいと思うほどだ。


 
【十六羅漢(ケヤキ)5尺5寸×2尺..本堂欄間】

【十六羅漢(ケヤキ)...本堂欄間】
 東京都日野市
    臨済宗建長寺派宝泉寺
 十六羅漢だけど、これは五羅漢!と言うことはあと十一羅漢が、別な面の欄間に描かれている訳だ。これも送られてきたのはカラーコピー!高さが2尺(60cm)の欄間を実際見ると見事だろうね。しかしこれを見ても決して深く彫っていない。ややあっさり彫りなのだ。

【1年後に注文が来た閻魔大王..総高3尺(1m)】
 閻魔堂 東京都八王子市新町 平成7年建立
 栗田氏の元にこの閻魔堂から製作の問い合わせがあり、閻魔大王の下絵を描いて送ったが、その後一年間、なんの音沙汰もなし、実は閻魔堂の再建者たちは、その間、色んな閻魔を見て歩き、一年後
「あんたの描いた閻魔が一番いいので注文したい」と依頼がきた。この閻魔、厳しいけどどこかにやさしい顔をしてる。悪いことをしても最後「まあ、可愛そうだから許してやろう」と許してくれそう。どこか心やさしき閻魔大王と言う感じがする。まあ、ただのシロウトの感じだろうけど。そしてこの大王の顔、良く見ると栗田くんに似てる。まあ、これもシロウトの思い込みか?
   

【顔だけ狛犬の阿形 栗田剛 作】
名古屋大須三宝大荒神天寧寺  昭和46年3月建
  顔だけ狛犬を救えの木彫り狛犬は、元々吽しかなく。阿形の方は栗田氏が、彫ったもの。やや前足を上げ、なかなか迫力だ。しかしこれも実際見たい!
  遠くからフラッシュを焚いた画像では。やはり見たい!美術品と言うのは全て、その作品の前に立って
見ないと実際のところは良く分からないものだ。革靴の底から足の裏を掻くようなもどかしさを感じるね。多少の作品の紹介しながら、全くなにも書けない自分が歯がゆい、ホント残念だなあ。

  

 

【彫刻師】4代目栗田剛プロフィール
 昭和19年7月19日名古屋生まれ。瑞陵高校後、三重大学教育学部美術科を卒業後、デザイン関係の会社に一年在職の後、栗田家3代目彫刻師父栗田三郎に師事し、仏像関係を中心に木彫の幅広い仕事をこなす。
  大学も美術科でデザイン会社にもいたことのある彼だが、
  「彫った作品に名を記すもんではない」と言う職人気質を持ち続ける男だ。今職人世界が、腕を忘れ、下請け化しつつある。今、こうした硬派の職人こそ、本当に貴重なのである。。

ええとここに本人の写真が入る予定!近々入荷

◎ええと追加などの変更をする予定!! 
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