第1回変った由緒の神社編
 全国に10万社を越える神社があるが、神社を創建するには、それなりの理由がある。そこで全国4千社を回った円丈が、その中からへえ〜〜っ、そんな由緒の神社が、そんな変った神社が、あったのか?と言うきわめつけを紹介しよう。
   ではでは   三 遊 亭 円 丈

 

 




   秋田県大館市葛原 【老犬神社】

 忠犬シロを祭る神社。実に珍しい。それは江戸時代中頃、南部領草木(現在の鹿角市の内)に定六と言うマタギ(猟師)がいた。この先祖は源頼朝の富士の巻狩りの際、目覚しい働きによって全国どこでも狩が出来る子孫永久又鬼(マタギ)免許状の巻物を頼朝公より拝領していた。

 その定六がある雪の朝、カモシカを追いかけ、深追いして三戸城内まで入りこみ、不運にも定六は、その時巻物を身につけていなかったのでとらわれの身になってしまった。
 

そして訳を話して3日間の猶予を貰い。シロに巻き物を取ってくるように命じた。シロは戻ってきて激しく吠えるのだが、様子が分からず女房はおろおろするばかり、翌日になってやっと巻き物を取りに来たことが分かり、家にあった巻き物を口に加え戻ったが、定六はすでに処刑されてしまった。定六の死後、犬は食を取らずあとを追って死んだ。その忠義の心に村人が感じ、ここに葬り祭った....。と掲示板に書いてあった。

  しかしこの由緒は少し奇麗事すぎる。その程度のことで本当に犬を神様に祭るだろうか??大いに疑問が残る。

神様に祭った本当の理由

 実はいろいろ話をきいたら、主人を亡くしてからのシロは、村をさまよいだし、人を見れば激しく吠えかかるようになり、ついに切り殺された。

  ...しかし...しかし..そのあと。実はシロの亡霊が出現し、村人を悩ますこととなり、そこでシロの冥福を祈り、祭ったと言うものだ。それなら納得できる。

  しかしこの老犬神社。秋田犬コンク−ルで優勝しようとか、良い猟犬にしようと言う人たちの信仰を集めてる。社内の本殿には木彫りの白い犬や、額が所狭しと飾ってある。

 




【萬四郎神社】福岡市博多区下呉服町1−

ここの神社名が変わっているが、ここは実業人の神様、子ども達の神様が祭られている。ではどなたが祭られているのか?それは江戸の初めの頃の大富豪と言えば、大阪では鴻池!博多では伊藤小左衛門だった。ことにこの小左衛門は小判の発行を幕府から許されていた。その伊藤小左衛門一族が祭られている。

 二代目小左衛門が、寛文7年(1667)黒田藩から国禁の貿易を咎められたようで妻子6人、番頭、手代。更には平戸、長崎などの一族郎党全てが捕らえられ、すべて斬首や磔の刑に処せられた。この刑が余りにも惨たらしいのでこれを祭ろうとしたが、刑死になった人を祭る訳にも行かなかった。

なぜ萬四郎の神社名に?

しかし...しかし5才三男の「小四郎」や、3才四男の「萬二郎」が、あまりにも不憫だと言う。そこでこの二児の名をひとつに合わせ「萬四郎さま」と唱え祭ったのがこの神社の始まり。それでもはじめは地主大明神と崇めたと言う。もし近くまで行くことがあったら、ぜひ見に行って欲しい。


  

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【三本杉神社】
 秋田県大曲市佐野町-

  この神社の掲示板によると、江戸期、津軽藩の参勤交代で玉川を渡ろうとした折り、船頭たちは、法外な酒代を要求した。
  それを聞いた当地佐竹藩では、この玉川渡しの船頭たちをことごとくひっ捕らえ、全員を極門磔にしたのだった。
 ....ところがその後、この玉川渡しでは数々の怪奇な現象(詳しくは書いてない)が頻発。そこで困り果ててその船頭の霊を弔うためにこの神社が創建されたと言うことだ。

  日本には祟る者を全て祭り上げ神様にしてしまう信仰があるが、これもそのひとつ。しかし酒代を吹っかける船頭を神様にしてしまう懐の深さ。素晴らしいねえ。



「茂岩不動之命」
埼玉県三郷市戸ヶ崎 香取宮 末社

 水害に苦しめられてきた三郷

 三郷はかって二郷半領と言い昔から水害で苦しめられきた。それは文化4年(1808?)6月3日。江戸川の未曾有の大洪水時、二郷半領と葛西領(今の葛飾区水元小合町)との境の桜土手を切って水を落とさねば二郷半領や戸ヶ崎住民は皆水死してしまう。
  しかし幕府役人が桜土手を厳重に警戒していたため土手を切ることが出来なかった。

 そこで村人が相談した結果、一計を案じた。小舟のヘサキにかがり火を焚き、そこに三頭の獅子を乗せた。暗夜に乗じて黒装束で漕いで行ってところ、案の定、警備の人達は洪水で獅子が居所がなくなって火を吐いて泳いで来たものと勘違いし、そのすざましい光景に幕府役人も腰を抜かして逃げ去った。
  その隙に桜土手を切った。ところが長沼村白石茂平と弟岩蔵の二人が、渦巻く激流に巻き込まれ、水死した。


そして茂岩不動尊が....。

 この2人のお陰で食料の困窮もなく村人たちは助かった。この茂平、岩蔵を弔うための供養と道しるべを兼ね、二郷半領と葛西領との境の堤(今の葛三橋の袂の大場川バス停付近)不動尊を建立し、それをいつしか「茂岩不動尊」と呼んだ。また当時の獅子の師匠達が桜土手を切った由来を残すため太刀の舞の演技に取り入れたと言う。
  やがて道路工事のため不動さまは、香取宮に運ばれ、神社に「不動尊」ではまずいと言うので「命」をつけて「茂岩不動尊之命」と神仏混交の名になったようだ...。合掌!


 ●近々第2回をやる予定....あくまでも!

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