更新日05/07/19  これは綾瀬に伝わる昔話です

 綾瀬昔ばなし
資料提供・・・唐松宮司さんより

  今回から綾瀬に伝わる昔話や、えっ、そうだったの?と言う意外な話がここに納められる予定。「小菅どん」と言う大蛇のはなしや、夜な夜な化かす狐とか、そんなコトが大正時代から昭和の初期まで昔話ではなく現実の話として綾瀬の人々の話題になっていた。綾瀬昔話は決して遠いことではなく。一世代、ニ世代までのことなのだ。それを宮司唐松さんが集めた貴重なお話。  三遊亭 円 丈

     【綾瀬昔ばなし集だよ】

昔話17・さし石横綱

昔話16・これが綾瀬に伝わるさし石の上げ方アレコレ!
昔話15・綾瀬のカワセミ 昔話14・綾瀬三名物と熱田神宮
昔話13・綾瀬のホタル 昔話12・綾瀬の相撲取り
昔話11・祝い鯛だけを狙う狐と狐の幻術を免れる為の伝法とは? 昔話10・綾瀬随一の名水「御神名の親水(ごしんめいノしんすい)」
昔話9・「おかしらが通るぞー」の掛け声      昔話8・綾瀬に実在した「梁の上で餅搗きが出来た」大きな家屋
昔話7・綾瀬川の堤を切って資材を運んだ金子左内 昔話5・田植えの頃に「頼みます」
昔話4・「えっ、灯篭型庚申塔?はなぜ出来た?」と言う昔話 昔話3・「小菅どん」と言う大蛇
昔話2・ここが狐の通り道 昔話1・私塾が綾瀬の公立小学校へ



 

 昔話17・さし石横綱

 

 明治後半のお話。「さし石」いわゆる「力石(ちからいし)」を担ぐことは、昔から「男の心意気」と云われ、村で一人前の男として認められる為の若衆の通過儀礼の一つでもあった。
 また、村々から力自慢が成田山に集い、「石相撲」と称された、石ざし大会があった。その大会において力自慢を誇ったのが、神社総代の若泉克志(かつゆき)氏のひいおじいさん(曽祖父)、若泉與八氏その人である。明治の末には横綱をはっていたほどの力持ちで関東一円にその名が知れ渡っていたという。
  それを証明する優勝額が成田山新勝寺に奉掲してあった。しかし大正時代のお寺の火事で、焼失してしまったのである。誠に残念。しかし当時さし上げた記念の「さし石」が自宅の庭に残されている。さし石と刻まれてあるのものが4つ。貫目の打刻されてあるのが1つある。しかし、刻まれていないが、さし石に相当されるものがあと3つほどある。
  さし石に打刻されている重量は貫目表記でその石の重さは48貫。今の単位で言うと180kgになる。さし石の重さの単位は米俵一俵が基本で16貫目(60kg)。先代の與吉氏が祖父に伝え聞き、さらに若泉さんが聞いたという石ざしのコツは、胸の所から一気に持ち上げる時に、体のバランスを取りながら、右足(右利きの場合)を肩幅になるように後ろに引くのだそうだ。
 しかし、それには怪力の上、修練も大事でコツは聞いて知っていても習得するのは難しかったというお話。そんな石ざしの奥義を人に平気で教えてあげていた成田山石ざし大会の横綱が、綾瀬には実在していたという綾瀬昔はなし。
 
【画像: クリスマスローズの園(若泉ファーム)で有名な若泉克志宅庭に鎮座する家伝のさし石】


 

 昔話16・こんなにあるある「さし石」の持ち上げ方

 【昔の力比べの道具・「さし石」!!!】
「さし石」とは、いわゆる「力石(ちからいし)」のことで、今でいう重量挙げのバーベルと同じものといえます。つまり、力比べの道具であり、 力石と呼ばれてもいるのは、それは俗称で正しくは「さし石」です。己が力でさし上げる石でさし石。また石に刻んである文字も力石は見かけないが、さし石(左し石、さ志石など)と打刻された石は随所にある。お神輿でも、もみ方が様々あるが、担ぐ全員が両手だけで持ち上げる状を「さし上げ」と称している。
 
  昔から、「力石 担ぐ男の 心意気」と云われ、村で一人前の男として認められる為の、若衆の通過儀礼の一つであった。元々は米俵をさし上げた事に由来するといわれ、其の為、石の重さの単位は、米俵一俵が基本。
一俵を重さでいうと、16貫。米の量でいうと、4斗。今の単位で分り易くいえば、約60kg(1貫3,75kg)。だから、今に残るさし石に打刻されている重量は、貫目と升目とがある。
 【例を上げると・・】
  ◎ 七拾余貫・・・綾瀬北野神社
  ◎八斗五升・・・五反野西之宮神社

 このさし石の重量は「切符八掛け」と言って正確さには欠ける物が多いので、わざわざ「正目」と打刻してあるさし石もあるほどである。綾瀬稲荷のさし石は、珍しい球形のもので現在の設置場所は、綾瀬富士のお頂上すぐ下辺り。

【画像:綾瀬神社星野錦吾総代長宅の家伝のさし石。打刻重量四十七貫。鬼門に据え、邪を祓い家を守る為の「要石」にしているとの事】
【子供たちもさし石でこうして遊んだ】

  土地の古老によると
「子供の頃、持ち上げたり、投げたり転がしたりした石だよ。寝転んで足に上に乗っけて回して遊んだりもしたねえ」と懐かしそうに話す。
 つまり大人のさし石を真似て子供たちも遊びで小さいさし石で遊んでいたことが分かる。ちなみに綾瀬神社にも手水舎の西側に一点大切に置かれている。

【珍しい鉄製のさし石・さし鉄か・・もんけん!】
 
綾瀬の鳶の頭(六番組)、6丁目の金子さん宅の玄関先には、「もんけん」 (「さし鉄」とも言えるもの。)という鉄製で昔の銅鐸の形状の物が3つ置いてあるが、先々代はそれを担いだりして力比べをしていたという(ヨイトマケの歌での力仕事がこれ)。
  重さは、大80貫、中40貫、小20貫。 ご参考までに、重量挙げの世界では、男子の最高ランクは、スナッチ120kg、ジャーク150kg。女子のはそれぞれ80kg、110kg。
 
  尚、氏子個人宅に残るところのさし石は、綾瀬1丁目星野総代長宅に1つ。
綾瀬6丁目若泉総代宅に5つ。エトセトラ。

【画像:綾瀬6丁目鳶の金子さん宅にある家伝のさし鉄。これが「もんけん」】
 

  【これがさし石の上げ方アレコレだ】

 【綾瀬に伝わる「さし石上げ」の持ち上げ方・・正式ルール】

石ざし
胸の上から一気に頭の上に、持ち上げる(ジャーク型)。
石担ぎ
左右どちらかの肩の上に持ち上げる。
片手留め
片手で支える。
 【これ以下は、半分遊びの遊びルール】
双回し   
軽めの石の場合、両手でぐるぐる回す。何度回せるかを競う。 
片手回し
同様に片手で回す。
首回し 
軽めの石の場合、両手で首周りをぐるぐる回す。何度回せるかを競う。
曲持ち
仰向けに寝転んで、両足で持ち上げる。
脚回し 
同様に、脚で回す。
 【おまけ:これは競技でなく子供たちがした遊び】
ほおり石
小型のさし石をどれだけ投げられるかを競うもの。 両足を開き、両手で石の左右を持ち、股の間を前後にふって、3回目に、前方へほおり投げる決まり。
石ころがし
特に名前はついてないが、今のおはじきみたいに遊ぶ。現代のカーリングみたいなこと。



   
    

 昔話15・綾瀬のカワセミ

 「空飛ぶ宝石」といわれるカワセミは、漢字で書くと宝石のヒスイと同じ字。その色合い美しい「翡翠」は、東京においては見る事それ自体が稀になった。全国的にも生息数は減少傾向にあるようだが、バードウォッチングをする人に聞くと霞ヶ浦には今も結構いるそうだ。 現在、綾瀬で観察出来るポイントは、東綾瀬公園と小菅浄水場の公園の水場ぐらいで、お目にかかるのは難しくなっている。
  この綾瀬に於いては昭和30年当時までは、かなり多くいて、分かり易くいうと今のスズメようにあっちこっちに出没したそうだ。特によく飛来した場所が、綾瀬稲荷神社の社殿裏手の一帯にあった淡水魚を養殖(特に金魚)していた大きな池(3家所有地)である。総面積は約2500坪。許可養殖者は4丁目10の白石松太郎氏ー現・蛭田家ー。

  地元の人は「金魚池」と親しみをもって呼んでいたが、大雨の時などは金魚が流れ出て来て大人はてんてこ舞いだったが、子供達は大喜びをし、高価な物は捕まえれば買い取ってもらえ、小遣い稼ぎにもなったのである。
  金魚のセリの始まる前のまだ幼魚の時分に、カワセミは冬鳥の為、池の金魚を狙うので、金魚業者からいうと悪者で、すばやいハンターだったからほとほと困り者であった。

【画像:昔は綾瀬に良くカワセがやってきた。撮影:綾瀬4丁目・金子勇氏】

  更に神社裏の大池では、水中浅く網を敷設した上で養魚していた関係からカワセミにしてみると格好のエサ場になっていた。簡単にエサの金魚をゲット出来ると仲間内で評判になったようで飛来数が増した為、一度霞み網を掛けて(現在は禁止されている捕獲法)様子を見てみようとなった。
  実際掛けると獲れるは獲れるはで、その数知れずというくらい一網打尽という言葉のようだったという。今度はこれじゃ可哀想だということになり、カワセミも生きるのやら子育でも大変だろうからとある程度は目をつぶり、池全体に網を張るような意地悪はせず、高価な和金や琉金の上だけにネットを張るなどして対処した。
  つまり、自由に金魚を獲れる場をカワセミに提供したという、こころ温もる対処法だったのである。
  綾瀬稲荷神社の裏の淡水魚養殖場の金魚池には、昭和30年頃まではカワセミが沢山いたという綾瀬昔はなし。又、綾瀬の人はカワセミに優しかったという、ある意味、今回は自然に対する愛情話。今でもカワセミのほか、メジロ・モズなどが綾瀬に飛来する。

  (注)『御宿かわせみ』の原作者である平岩弓枝氏は、渋谷区代々木八幡宮の宮司職、平岩家のご出身。

【画像:今もメジロは綾瀬にもやって来る:撮影・綾瀬4丁目・金子勇氏】


 

 昔話14・綾瀬三名物と熱田神宮

 【綾瀬のなつかしい風景・・円心橋、養福寺の大楠、大室家の信長塀(築地塀)】
  綾瀬の地をふる里とする人々に自然景観の趣あるところを3つあげて下さいというと年配者の答えは決まっている。
  その1・現存しないが綾瀬最古の石橋ホタルの名所でもあった円心橋(現綾瀬3丁目)
 その2・養福寺(綾瀬 2丁目)、足立区最古の大楠(樹齢500年)
 その3・綾瀬4丁目の大室家住宅北側の信長塀(築地塀)だという。
  おまけ:綾瀬稲荷神社の落語狛犬・・まあ、これは冗談として。
 
  【唐松宮司の言う綾瀬と名古屋の意外な共通点!】
 唐松宮司は、なかなかの博識で、唐松氏が言うには、私(円丈)の故郷の尾張名古屋には、神社界において熱田さんは伊勢神宮に次ぐ社格の熱田神宮があり、その熱田神宮は、名古屋名物きしめん発祥の地としても有名です。一名を「宮きしめん」と言うとか。
  そしてこの名古屋と綾瀬には、意外な共通点があると言う。その共通点とはなにか?以下は唐松氏の主張する。綾瀬3撰と熱田3撰の思いがけない類似点である。さすが、唐松さんは、スゴイ!!

 【その1・綾瀬3撰と熱田3撰の比較】
【綾瀬の円心橋(ホタルの名所)と熱田熱田二十五丁橋】
  これは、25枚の板石を太鼓橋形に組んだ石橋で、我が名古屋でも最古の石橋としてよく知られているものです。かの西行法師も渡られたといい、 尾張名所図絵にも描かれ、名古屋甚句の一節にも出てくるもの。現在は神池の畔に据え置いてあり、綾瀬の円心橋同様、この神池にはホタルが出るというからよ く似てるね。
【その2・綾瀬の樹齢500年の古楠と熱田神宮の御神木の大楠】
 あちらは樹齢1千年以上とされ、綾瀬の倍。なにせ、弘法大師お手植えというから古くて当たり前。神宮手水舎の傍らに堂々としてそびえる様は圧巻で やはり熱田神宮の名物です。
【その3・綾瀬の信長塀と熱田の最古の信長塀】
 綾瀬には綾瀬4丁目の大室家住宅北側にある立派な信長塀(築地塀)があり、そして熱田神宮には、名勝である織田信長本人が築かせた最古の信長塀です。神宮参拝所の手前辺りです。これは桶狭間の戦いの戦勝恩礼に奉納した築地塀で戦国時代3英傑ゆかりの物 として名古屋でも著名なものです。
【おまけ・・神社に対する考え方】
  綾瀬1丁目星野錦吾綾瀬神社総代長、綾瀬2丁目石橋清衛北野神社総代長、綾瀬4丁目大室徳三綾瀬稲荷神社総代長それぞれが、神社の祭事折々に、「神社を中心に据えて、地元氏子のこころの拠り処として、大切に守っていこう」と発言される。これに大して名古屋熱田神宮では「市民のこころのオアシスとして親しまれる境内つくり」を推奨している。綾瀬名物と熱田名物は実に共通性があると唐松氏は主張する。なるほどねえ。
【ついでに熱田食べ物きしめん、ひつまぶしの紹介】
  熱田の杜は、古来「不老不死の理想郷、蓬莱の一つ」として、「蓬莱島」「雲見山」の名で知られ、神社界でも高名なんだそうです。そして、私(円丈)の故郷名古屋名物の一つに「ひつまぶし」(櫃ーひつーに入った、うなぎ飯と言う意味)があります。熱田神宮南門前にある、ひつまぶしの老舗の店名が「蓬莱軒」とあるのは、これに因んでいる為とも云われているらしい。
  このHPをご覧のみなさん、特に綾瀬の皆さん、是非とも綾瀬にもゆかりある熱田さんへお運び頂き、自分の目で綾瀬三名物と同じものを拝見していただき、神社境内の清め処で熱田名物「宮きしめん」と熱田名物「ひつまぶし」を食べてみてはどうでしょう。おススメです。参考までに一番盛大な「熱田まつり」は6月5日だそうです。以上、唐松氏のお話!!

   
  第9回昔話12

 昔話13・綾瀬のホタル

 現在綾瀬の地には、田畑が殆ど無い都会化された町に発展した。しかし、綾瀬地区は、元々蛭沼耕地と古称されていた通り、低湿地の土地柄であったという。それゆえ、夏の昼には蝉時雨の声を聞き、夜にはホタルの飛び交う、趣のある田園風景であった。
古隅田川や綾瀬川では鮒や鯉など川魚も多くいた。そういう田んぼがまだ多く存在していた昭和30年代中頃までは、そこここにホタルはいたのである。特に沢山出没した為、綾瀬のホタルの名所として誰もが知っていたのが、古隅田川の北を東西に走る川(八ケ村落堀)に架かる石橋の円心橋周辺であった。

  場所は綾瀬3−9、鳩公園北西辺。地元では橋の名前の由来ともどもよく知られていた場所である。必ず、通らないと他所へ行けない交通の要衝であったからである。旧町村の古地図を見ていただければ一目瞭然である。

【画像:ホタルいないので代わりに、ほたる草】

  さて、この橋は江戸時代の1790年ごろまでは、木橋であったが、度々大水で橋が流されてしまうことがあり、東和の円性寺の僧円心が、近郷から来る檀家の葬送に支障が出るから、架け替える時には、石の橋で架け替えてほしいと関東郡代伊奈氏にお願いして出来たといういわれのある、総小松石製の石橋であった。時に、寛政4年10月。願主は熱心に嘆願した円心である。この石橋は、昭和35年から始まり10年の歳月をかけた綾瀬の区画整理で撤去され、川もなくなった。
  しかし、それまでは、綾瀬一番のホタル狩りの場所として近隣に知られていた名所であった。また、区画整理される時に、その架橋されていた円心橋の石は、何人もの綾瀬の先人たちが踏みしめ、汗して行き来した貴重なものだからと、綾瀬稲荷神社の大室総代長が、自宅の板塀の礎石として貰い受け、大室家東側の板塀の下側には、円心橋の由来となる、銘文が打刻されて残っている部分を今も見て取れる。綾瀬の昔話がそのまま生きているお宅である。
  という訳で、綾瀬駅東口北側という綾瀬一番の超近代的な場所が、かつては円心橋という石の橋があり、その小川周辺が、綾瀬随一のホタルの名所であったという 円心橋を知っている人には、特に懐かしい綾瀬昔はなし。


【石橋、円心橋の名残石・・現大室総代長宅の板塀、上段の長い石】

 



 

 昔話12・綾瀬の相撲取り
  綾瀬稲荷神社の氏子から、明治末から昭和にかけて、お相撲取り「高瀬川」「綾瀬川」「八幡森(やわたもり)」
  の三人を輩出している。今回はその力士衆の綾瀬昔はなしです。

 【1・十両まで昇進し引退興行相撲も盛大だった“高瀬川”】
 
  一人目は、綾瀬4丁目の高橋家(屋号・大仙)の仙蔵さん。明治17年2月17日生。現在当主の久枝さんの祖父である。仙蔵〜兼松〜久枝氏の御血統となる。地元では向かうところ敵なしで、素人の草相撲から本業相撲界に入る。四股名は、高橋姓と綾瀬川とをかけ合わせて“高瀬川”。体は細めだが、上背が高く、実力を徐々に付けて、最後は十両まであがった。
  引退興行相撲は、綾瀬でも盛大にうった。場所は五兵衛橋の東詰、現在の綾瀬4−13。かつてあった橋際屋の南の畑を整地して、4本柱の櫓を立て、土俵をしつらえての興行で、村中から人々が引退を惜しんで集まった。大室総代長も小学2年生ながら親に連れられて見に行ったそうだ。時に昭和2年の秋の綾瀬昔はなし。

  余話として、孫の久枝さん本人の記憶には殆ど無いということだが、親族に言われた話では、幼い頃、高瀬川がたいそうかわいがってくれて、家にいる時には、胡坐を組んだその中にすわらされ、食事時には、よく魚を食べさせられていたという。その影響からかどうか、今でも魚料理は大好きだというお話。

【今に伝わる高瀬川(高橋仙蔵)の肖像画:明治40年7月17日(当時24歳)の頃の雄姿】 
 【2・ずば抜けた力持ち“綾瀬川”】
  二人目は昭和10年代に活躍した力士。綾瀬7丁目の大室登さんの家からである。当主は藤蔵 〜勝一〜登氏と続き、先々代の弟の倉吉(くらきち)さんがその人。四股名は、「綾瀬川」。番付けは三段目であったが、体は大きく、村でもたいそうもて囃されたというお話です。

  特に力仕事では、語り草も多く、肥料桶を天秤棒で担いでいく時など、普通は前後一桶づつだが、綾瀬川こと倉ちゃんは、前後3桶ずつ計6個を平気の平左で担いでしまうほどの力持ちだった。
 
  隣接の金子さんの物語る話としてたまたまその前を自分が担いで歩いていると後ろから、ズシズシズシと地鳴りがするぐらいすごかったので、怖くて足がすくんでしまい動けなくなって、通り過ぎるのを見送ったという逸話も残っている。

【3・十両まで昇進し、活躍した“八幡森(やわたもり)”】
 
  三人目は、戦後に活躍した力士八幡森。綾瀬駅西口北で日乃出寿司を営む中田幸一氏の父親の梅吉(うめきち)氏である。前述の綾瀬川関には、いつまでたってもかなわなかったと先輩を称えて自身を誇らない、体は大きいがやさしい力士だったと言われている。
  福島鑢(現・千代田鋼鉄)が綾瀬の地に招聘されるに伴い、栃木県岩舟町から移り住んだ方。生まれ故郷の氏神さまの八幡神社から名を頂き、四股名は「八幡森(やわたもり)」と命名。高島部屋に所属し番付けは十両手前まで進んだ。
  神社の境内に土俵を仮設して、神社に相撲を奉納したり、現在の相撲巡業で見るようなことを、町会の青年部の活動の一環として奉仕した。また、子供同士の豆相撲を指導したり、丁寧に稽古をつけたりした。そんな地元密着型のお相撲さんでした。 
 
  現在綾瀬出身の力士はいないが、後援者として、総代の近藤利男氏や中田幸一さんが元大関若嶋津の松ケ根部屋や高島部屋の顔ききです。又、責任総代の鳥海氏が経営する弘道幼稚園では、歳末お餅搗き時など諸行事に、足立区に部屋を構える玉ノ井部屋(栃東関が在籍)から若衆を呼ぶなどしている。


 

 昔話11・祝い鯛だけを狙う狐と
              狐の幻術を免れる為の伝法とは?

  狐は油揚げが好物と云いますが、高価なお魚である鯛も大好きだったようだ。綾瀬には野狐がよく出没した番神堂の道があったが、不思議と北からの帰り道では、狐に化かされたり、持ち物を取られたりという災事は、あまり出くわさなかった。しかし、堀切方面から、つまり南から帰ってくる場合、近道だからとこの番神堂の道を使うとよく狐に化かされたのだそうだ。

 綾瀬6丁目の旧家山崎宅が、南北からの道がぶつかる角地であったが、特にその手前辺り(今の東綾瀬公園グランド周辺東側)が、南から帰ってくる人間には鬼門であった。綾瀬稲荷からみてもまさに鬼門の方角で肥溜めを風呂と錯覚させられたりした人もいたほどだった。祝い事の帰り道に限り、多くは化かされた挙句、祝い膳のお重の中の祝いの焼き鯛だけがなくなっているのだという。なぜか焼いてある祝い鯛ばかりが狙われた。一番のご馳走を狙ったのか、大好物だったのか、その理由は不明。

 しかしその幻術を避ける護法が一つだけあった。それは、変だなと感じた時に、「 煙草の火」という一事を心に念じられれば大丈夫だったという。しかし、化かされる前にはそう思っていても、いざ実際となると、至難の業で、化かされないように、どんなに気をつけようと思っていても、ダメで、その一念が頭に浮かばず、ついには化かされてしまうという有様であった。

 本件取材協力は、番神堂の西側に代々住まう綾瀬7丁目の清水金吉氏、神社責任総代(屋号・西の家ーうちー)。その祖父、清水吉蔵氏が家人に語った話では、狐は提灯を器用にも尻尾につけて、それを体に巻くようにして前へ出して歩いていたという。又、「煙草の火」というのは、火を付ける時に擦るマッチの匂いと煙を狐が嫌いだったから、幻術がとけるのだと聞かされたとの由。

 はたしてその真偽は?狐は狐火を駆使するので、火に弱いとはあまり思えない。しかし、古来狐落としには煙を焚きこめることをよく修法するので、相通じる何かがあったのではないだろうか。兎にも角にも、野狐(やかん)の災いを避ける伝法が、この地には残っていたという綾瀬昔はなしです。



 昔話10・綾瀬随一の名水が湧出した綾瀬稲荷神社の井戸
        人呼んで「御神名の親水(ごしんめいノしんすい)」

  綾瀬には、かつて井戸が沢山あった。現プルミエの北方には、井戸水を使い鰻などの川魚を商う、地元では有名な川魚問屋「鮒源」があった(現在、綾瀬2丁目に会社を構える)。当然の事ながら各家庭にも井戸はあったが、村中で一番水がおいしいと評判だったのは、実は綾瀬稲荷神社の真名井であった。
  元々は境内東にあったとか、明治20年5月、神社境内で新たに井戸を掘り、場所は現在の手水舎の辺り。その東の十坪ほどは神池はひょうたん型で瓢箪池と呼んでいた。池の北端(今の表参道の南側石灯籠辺り)には、伏龍の黒松があり、瓢箪池の上方を覆うように枝が張り出す状は、言葉に表せぬ、いかにも神域の池という景観を呈していたと口伝に残る。又、明治39年大室貞蔵氏奉納の絵馬額にも、社頭の景色絵図としてみる事が出来る。
 さてその神池の傍にあった井戸こそが、誰と云うともなく「御 神名の親水」(単に御神水ーごしんすいー)と呼んでいた真名井。前述の明治39年の絵馬額にもその呼び名が表記されており、既にその名が定着していたことが判る。その真名井の水は冷たい時にはこと さら甘く感じた、とは古老の談。

  戦後しばらくして池ともども埋納され、現在はその井戸も池も松も既に無い、かつての面影を偲ぶことも出来ないが、間違いなく存在していたという確証は、古老の口伝のみではなく、神社境内で採掘したこの井戸掘りの様子を描いた絵馬が実際に残っているからである。後世にことの次第を残そうと衆議された絵馬額の寸法は、縦70、横30センチ。時に明治20年5月のことである。書き残してくれた絵馬がその根拠となる訳で誠にもって幸いであった。願主は、金子伊之吉・清水安蔵・金子市吉。この他にも、明治時代の神社境内を記した絵馬額にも散見できる。

 井戸掘りの絵馬は、他所にもあまり類例がなく、また、描かれた絵から、櫓組など井戸掘りの工法が判り、又、櫓の高さが井戸の深さに相当することや湧水豊かな様が桝組みから溢れ出ている水量で現すなど、絵馬としては誠に貴重で、まさに珍品だという専門家のお話から、今は足立区郷土博物館に預けてあります。

  ご参考までにその絵馬は2階に常設展示されています。また、井戸堀りでの初水は、桝組から溢れ出たという話は、綾瀬の井戸堀りでは周知のことで、清水金吉責任総代宅の井戸もそうだったといいます。つまり、綾瀬の井戸は、すこぶる水量豊富であったことが伺えるのである。

【これが綾瀬稲荷に伝わる井戸掘りの絵馬明明治20年:現在、足立郷土資料館に展示中!】


 昔話9・「おかしらが通るぞー」の掛け声                    
 綾瀬川の水は生活においてとても大切で、田植え時期の「綾瀬川の水争い」は昭和30年代に入っ てもあったそうです。また、その綾瀬川を使った舟運の利便性は、沢山の荷物を低価格で尚且つ早くに運搬出来、上りも下りも行き来は盛んだったそうです。
  便利であるために川沿いには大きな河岸も整っていて、荷駄を扱う問屋も川筋の各所にあったそうです。 綾瀬でも豪農の吉田惣本家(屋号・四郎平)や金子左内家を始め、多くの名主の物資流通手段の主力も川舟であり、その手間扱いは、船運業も手がけていた西綾瀬の鳥之海家(屋号・おかしら) が多くを扱っていた。

  会津藩下屋敷(港区三田辺り)の御用(鑑札や御用陣羽織は散逸して今は無い) も勤めていたこともあり、その名は川の流域では知れ渡っており、どんなに川が混み合っても、五兵衛のおかしら家所有の高瀬舟が通りかかれば、「おかしら」と書かれた高張提灯を舳先に出すと、何処からともなく「おかしらが通るぞー」の声が掛かり、川路があけられたとの事。
  現当主の神社責任総代、鳥之海丈之助氏の亡父・伊三郎氏が子供の頃の話として、その帆掛け船の舳先に立ったことがあったという。何処からともなく「おかしらが通るぞー。」の声がすると、他の舟が、どんどんどいて水路をあけてくれたので、子供ながらに気持ちがよかったという思い出話を、家族がよく聞かされたとの由。そんな優先された御用船がこの綾瀬の地にはあったという、綾瀬昔はなし。



 昔話8・綾瀬に実在した「梁の上で餅搗きが出来た」という大きな木造家屋
                     ・・・ 金子左内家の伝承より
 綾瀬川流域では、「宇喜田(江戸川区)の行船(田中家)か、五兵衛の左内か」といわれる 豪農が在住した。その五兵衛の左内(「佐内」の表記も散見する)とは、綾瀬4の金子左内家 のことである。豪農の名に恥じない、それはそれは大きな家であったという。今尚伝え聞く話 では、たいそう大きな梁が何本もあって、特に土間を走る大きな梁は、その上で餅搗きが出来 たという程巨大だった。実際に見聞きした親達から直接その話を伝え聞いた人々が、今の神社 の役員さん達で、その実証を確認している。
 その家屋も、明治の御一新を経て、大なる家は経済的に困難が多く伴うので、江戸時代から 住み慣れ染めし、自宅を取り壊し、わら葺屋根の(それでも一般よりは遥かに大きな)家を建 築した。それが、昭和末年までの旧・左内家住宅であった。現在、目にする居宅は、平成に入 り新築した建物である。  さて、その餅搗きも出来たという、大きな梁のあった大邸宅を建築するに際して、もう一つの 「綾瀬昔はなし」をご披露します。  



 昔話7・綾瀬川の堤を切って資材を運んだ金子左内
                     ・・・ 金子左内家の伝承より
 建築材料を運搬するにも、量も寸法も膨大な為、綾瀬川を使って運搬する計画ではあったが、 家の傍の集積する場所までの手間が問題となった。そこで、川から家まで堀を掘り、なんと、 綾瀬川の堤も切ってしまい、綾瀬川の水を通して、その堀を利用して資材搬入をしたという。 近隣の村々、特に土地の低い地域から、「いくら左内さまの家の建替えであっても、そんな事 をされたら、田んぼも自宅も水浸しになる危険がある。」と、掘削前に苦情や非難がわきおこ ったという。
  しかし、「なにか、不都合が起こったら、この左内がすべて責任を取る。心配す るな。出来上がった暁には、ちゃんとする。」この鶴の一声で決着したという。時代劇で見る ような事が実際にあった訳で、自宅に建築資材を運ぶ為、綾瀬川の堤さえも切ってしまった大 名主がいたという、江戸時代の綾瀬の昔はなし。
 当時の宮惣代の長人であった当主は、完成後、綾瀬稲荷宝前で「神恩奉謝と堤堅固の祈願祭」 を挙げた。近隣の小作には秋の料としての納米を「大祝い」とて減免し、村人にも祝い餅などを 大いに振る舞いったという。堤の一件や完成した家の大なることなどから「さすがは、左内さま」 と評判になったと言う。  





 昔話6・田植えの頃に「頼みます」
                     ・・・ 綾友会御婦人達の話より
 昔、田植えの時分には、箕(み)に入れた苗 と五合枡に入れた玄米を各家の人が神社に持ってきては、大収穫ではなく、 程々の収穫を神社に祈願したという。その時には「頼みます」と心の中で唱えながら、神社の周囲を3度、時計回りに収穫を願いながら歩いたそうだ。
 歩きながらの「頼みます」は「田の箕増す」とも成る。つまり、田の収穫が上がり、 それを入れる箕が増える、という言葉の変化で、豊作を予祝するのだそうだ。 そして秋には、「田野実 満寿」で五穀豊穣を迎えられますようにと念ずるとのお話。
 ◎五合枡に入れるのは「半升(はんじょう)」が→「繁盛」に繋がり
  ◎時計回り歩くのも「日」が二つ重ねの「繁昌」の字から風雨の害なく、お天道様の日差しが頂ける事に つながるとのこと。
  昔は自然任せの稲作があったので、太陽の恵みは、神様の恵みと直結していた時代の綾瀬昔話。参考までに有名な古社には、お田植祭が伝承されているが、やはり社殿を3周したり(松尾大社のおんだ祭り)、田んぼに見立てた広場で早乙女がぐるぐる歩きながら田植えの所作(田歌を謡い、田舞い) をする神社が多い。ちなみに早乙女は8人が一般的で八乙女と言うそうです。
 【画像:綾友会の茶話会、 右端、紫色の着物が、代表の島村久子さん】

 昔話5・田植えの頃に「頼みます」
                     ・・・ 綾友会御婦人達の話より
 昔、田植えの時分には、箕(み)に入れた苗 と五合枡に入れた玄米を各家の人が神社に持ってきては、大収穫ではなく、 程々の収穫を神社に祈願したという。その時には「頼みます」と心の中で唱えながら、神社の周囲を3度、時計回りに収穫を願いながら歩いたそうだ。
 歩きながらの「頼みます」は「田の箕増す」とも成る。つまり、田の収穫が上がり、 それを入れる箕が増える、という言葉の変化で、豊作を予祝するのだそうだ。 そして秋には、「田野実 満寿」で五穀豊穣を迎えられますようにと念ずるとのお話。
 ◎五合枡に入れるのは「半升(はんじょう)」が→「繁盛」に繋がり
  ◎時計回り歩くのも「日」が二つ重ねの「繁昌」の字から風雨の害なく、お天道様の日差しが頂ける事に つながるとのこと。
  昔は自然任せの稲作があったので、太陽の恵みは、神様の恵みと直結していた時代の綾瀬昔話。参考までに有名な古社には、お田植祭が伝承されているが、やはり社殿を3周したり(松尾大社のおんだ祭り)、田んぼに見立てた広場で早乙女がぐるぐる歩きながら田植えの所作(田歌を謡い、田舞い) をする神社が多い。ちなみに早乙女は8人が一般的で八乙女と言うそうです。
 【画像:綾友会の茶話会、 右端、紫色の着物が、代表の島村久子さん】
 【五兵衛新田(綾瀬地区の呼称)お田植え歌」より】
  若種植えよ 苗種植えよ
   女の手に 手を取りて
     拾い取るとよ 
    ヤーレー ヤレ




 昔話4・「えっ、灯篭型庚申塔?はなぜ出来た?」と言う昔話
            ・・・・・ 綾瀬稲荷神社 蔵
 現在、綾瀬稲荷神社の本殿には安永8年(1779)3月の石灯篭があり、この灯篭には台石には「見猿・聞猿・云猿」の三猿が刻まれていてとても珍しいものです。なぜこんな珍しい灯篭が建立されるることになったのか?それにまつわるお話です。  柴又の帝釈天(題経寺)と言えば寅さんで有名ですが、以前は60日に一度の庚申の日にお参りする「庚申まいり」でとても有名でした。今も帝釈天では、庚申まいりの日には数十万人がお参りすると言われています。
  そしてこの綾瀬の地でも江戸時代の頃は、庚申信仰がとても盛んで今も綾瀬2丁目地区には石祠型の庚申塔 が2基、区文化財指定を受けているほどです。そして本殿脇にある安永8年(1779)3月の石灯篭!実は灯篭ではなく灯篭の形をした庚申塔なんだそうです。
 江戸時代に入ってからはこの庚申信仰が次第に盛んになり、帝釈天の「庚申まいり」が行われるようになった安永年間には、「お稲荷さんをお参りする時は庚申さまも一緒にお参りしなければ失礼になる」と言う話が広まりました。
 
 今考えればなんの根拠もないのですが、でも当時に人たちにとっては、大変なことでした。そこで当時の綾瀬稲荷でも庚申塔を作り、一緒にお参り出来るようにしようと言う相談が持ち上がりました。
 しかし普通の庚申塔では面白くないと言うので灯篭型にして下には庚申の象徴三猿を刻んだ 「灯篭型庚申塔」一対を社殿の前に金子・新水(清水)・高橋・六笠の宮総代四家で奉納したんだそうです。

  社殿の両脇に置かれるので特にこの庚申塔に手を合わせなくても。お稲荷さんに手を合わせただけで同時に庚申さまにもお参りしたことになると言うまさに一石ニ鳥と言いますか、一挙両得と言いますか、まさに画期的?なものでした。綾瀬稲荷の本殿脇の安永8年(1779)灯篭型庚申塔はこうして誕生したのです。めでたし、めでたし!

【当社社殿にある灯篭型庚申塔の下の部分:台石に三猿が刻んである】
  【庚申は「孝心」に通じる・・・と言う逸話】
   
  帝釈天さんの説明によれば、「庚申」は「孝心」に通ずるのだそうです。そして庚申塔に良く見られる見猿、聞猿、云猿の「三猿」も実はこの「孝心」から来たものだそうです。それはある猿の世界のお話です。
 ある小猿の話です。その小猿は、相談事を本来は先ず自分の親猿に相談すべきなのに。なんとよその親猿に相談に行きました。そこでそこの家の親猿は、本当の親をさしおいて答えてしまっては悪い行いになると思い、自分は一切応対せずかわり三匹の小猿を出して答えも言わさずに帰らせました。
 そして自分の小猿に事の次第を話して 「孝心」を悟らせたという三匹の三歳の小猿の逸話があります。
【三猿の意味】
目を両手でふさいだ猿(見猿) 悪き事を見ぬのが吉の意
耳を両手でふさいだ猿(聞猿) 悪き事をば聞かぬが善の意
口を両手でふさいだ猿(云猿) 悪き事をば云わぬが能きの意

 



 昔話3・「小菅どん」と言う大蛇
 昔、綾瀬の西の地、水戸徳川家の小菅御殿近くには、「小菅どん」と呼ばれる大蛇がよく出没して、人々を驚かしては、それを見て楽しんでいたという。正直者に危害を及ぼすことは一切なかったが、大罪を犯したものや、不忠者はガブッと一呑みにしたという。 見た人の話によると、醤油樽ほどの太さがあり、松ノ木のような色合い、大きさであったとの事。
  大正時代までは大蛇の通った跡がよく見つかった。大室総代長が子供の頃は、化かされるから、近寄るなと祖父の寝物語に聞かされたそうです。 捕らえられたという記録もなく、死骸が見つかったということもない。だから今もいるのだろう。
  (総代長大室さんからの話)

 

 

 昔話2・ここが狐の通り道

 むかし、綾瀬の北東の地に、「番神堂の道」と呼ばれる、加平に通じる斜め南北に渡る古道があった。 ここには、綾瀬稲荷神社の神使として出没した神狐ではなく。いわゆる野狐が沢山住んでいた。
  夜な夜な人を化かしに出てきたり、明かりが灯ったりしたことがよくあったという。そして、狐同士が結婚する時には、いわゆる「狐の嫁入り」の提灯行列が通ったので直ぐに判ったそうだ。
【現在の青井3丁目綾瀬川沿い・・ここに狐が出たそうな】
 

 昔話1・私塾が綾瀬の公立小学校へ

 明治7年のこと、綾瀬の南の地に「梅花塾」と言う塾があった。綾瀬は足立郡の中でも進んだ地で教育もさかんだったそうだ。梅花塾と言う名は、塾長が水戸の出身で水戸徳川家より三本の梅ノ木を寄贈されたことから「梅花塾」の名がついた。
  そして明治11年5月28日、この「梅花塾」が足立区で2番目に古い公立学校「弘道小学校」と変わった。当時の住所は五兵衛新田の南端1番地で今の大室総代長宅の西南、千代田線高架北側辺り(綾瀬4−1)にあったそうで。それが関東大震災の後、昭和に入って弘道小は現在地の西綾瀬3に移されたと言うことです。
【かっての「梅花塾」が弘道小学校になった・・】

 


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