更新日13/03/11



 伊奈家の真実


                

まず、伊奈家について

                    

  綾瀬2丁目で印刷業を営む、伊奈清氏の系譜については既に「氏子通信」で紹介させていただきましたが、伊奈家の歴史的なことを更に詳しく聞いてみたいという話がいろんなところから出てきまして、この度、当の伊奈氏本人の監修も頂き、数回に別けて、更に掘り下げて発表する事になりました。
 
さて先月(08年5月)には前進座の公演で伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)を扱った「怒る富士」が上演され、大変な好評を博しました。
  その伊奈家の事に関して歴史公証など忠実に調査されての舞台であったことが、よく伺われました。例えば伊奈家の家紋です。正しくは「右二つ巴」なのですが、逆の「左二つ巴」を掲載する、刊行物を多く散見します。
  又、かつて上演された「ふゆみそう」という同じく伊奈家を題材にした、芝居もあり、民衆が「神様・仏様・伊奈様。」という場面が何度も出て来るなど、一般民衆の信望の厚さが伺われるシーンでした。  
  江戸時代の一識者が「伊奈家と申せば、百姓は勿論、町人に至る迄、神仏之様に敬ひ申候。」 (『寛正四子覚書』国立公文書館所蔵)と述べていたように「伊奈半左衛門」の名は、当時から一般民衆の信望をあつめており、広く知れ渡っていたのである。
◎伊奈家の真実・・巻きの四

◎伊奈家の真実・・巻きの三
◎伊奈家の真実・・巻きのニ
◎伊奈家の真実・・巻きの一   

【画像:前進座5月国立劇場公演の「怒る富士」のプログラム】


 



 伊奈家の真実・巻の4




                

 伊奈家の差配について(2)


伊奈家代々の業績については、夫々記録されておりますが、
今回は、特に2代目忠克、4代目忠篤、5代目忠順の特筆すべき偉業を挙げて顕彰したいと思います。

 2代 半左衛門 忠克は、米沢藩上杉家の城明け渡し後の大役(福島藩、12万石)。
4代 半十郎 忠篤は、飛騨高山城主、金森家の城明け渡しの大役(飛騨高山藩、4万4千石)。
5代 半左衛門 忠順は、富士山の宝永大噴火の事後処理、である。

 
代官や郡代の支配は、通常代官5万石以内、郡代7・8万石以内であったが、
伊奈家は譜代の幕臣、直参の旗本で土木治水を得意としたこともあり、初代 半十郎 忠治(ただはる)
は、幕府の代官頭として60万石を支配した。以後、10代 右近将監 忠尊(ただたか)まで、
代々30万石前後を世襲し、夫々勘定吟味役の上首や首座を兼任して、現在の埼玉県川口市の赤山を居城とした。



                

 まず、2代 半左衛門 忠克の功績について

 

 寛文4年(1644)に米沢藩上杉家が故あって幕府に依って接収された福島12万石の
支配を命ぜられた一件である。延宝7年(1679)本田忠国が福島城主に封じられるまで
の15年間、伊奈家の支配におかれ、関東郡代の兼任支配となった。
次に、4代 半十郎 忠篤の業績は、飛騨高山の金森家、城明け渡しの大役。これは、既に、
伊奈家の真実・巻の2に詳述しているので、ご参照願いたい。

 元禄5年(1692)、飛騨高山4万4千石の領主金森頼嵩(よりとき)が出羽上の山に
移封を命ぜられ、正徳5年(1715)森山左衛門がこの地の専任代官になるまでの23年間、
6代目半左衛門 忠達(ただみち)までの3代に渡って、伊奈家の支配におかれ、関東郡代の
兼任支配となった。・・・高山陣屋の始まり。

最後に、5代 半左衛門 忠順の業績については、富士山の宝永大噴火の事後処理、である。

新田次郎の『怒る富士』で取り上げられた歴史的事実であり、数年前には前進座の芝居にもなったほどである。
それは、宝永4年(1707)11月23日富士山の大噴火(12月8日まで続いた)により、
壊滅的打撃を受けた駿東郡一帯の関東郡代忠順の命を懸けた事後処理の功績を称えるものである。
幕府の裁可、駿東郡59ヶ村は、復興が望めないとして亡所(ぼうしょ・すてられた土地)とされた。




 つまり幕府の救援がほとんどない地区にされてしまった惨状の甚だしい荒廃せる
この地を、小田原藩から幕府に引き上げ、関東郡代伊奈半左衛門 忠順の支配所に移し、
復旧作業が進められたのである。時に、宝永5年1月7日のことであり、
この当時、忠順の支配地は40万石にも及んでいた。

 富士山の宝永大噴火当初は、そもそも小田原藩大久保家の支配地であったが、
その時期、大久保家は膨大な借財をかかえており、藩財政は極度に悪化していた。
そのため藩は農民たちの強力な救援要請に対し、御救米2万俵を支出したのがようやくであり、
被災地の復旧には手が回らない状況であった。

そこで、復旧策に窮した小田原藩は惨状の甚だしい荒廃地域を幕府領に支配替えすることを願い出て、幕府はこれを許し、代替地として、伊豆国・三河国・美濃国・播磨の5ケ国、このうち5万6384余石の地を小田原藩に貸し与えた。

幕府はこの時、被災復旧資金として、御領・私領にかかわらず、およそ高100石につき、金2両宛の高役金を課した。
こうして集められた高役金は、48万1870両と銀1貫870匁に達した。
しかし、新井白石の「折たく柴の記」に依ると、この高役金のうち約半分の24万両が他に流用されたという。


 噴火の翌年6月・正徳元年7月には洪水もあり、駿東郡村民は益々困窮を極めた。
遠く江戸に迄降灰したという火山灰や軽石は、駿東郡一帯では3.5mも堆積したという。
忠順は、まず、家臣の大河内与兵衛らをその見分に派遣するとともに、
相模国足柄下郡酒匂に会所を設け、駿東郡59ケ村などの救済にあたった。
須走地区は2年にして見事に復興、富士行者を迎える宿場を作ることが出来たのである。

被災地の復興は困難を極めたが、その後、幕府に依る復興計画は、7ヶ年と見直し、
亡所政策は改められ、幕府の支援が駿東郡一帯に出るようになっていった。しかしながら、
この地を小田原藩に戻したのは、噴火から約20年後の享保年間(1729頃)、
場所によっては、宝暦6年(1756)4月であったという。
如何に宝永大噴火が大災害であったかを証明している。

 伝説では、これら被災地農民の窮状をみかねた忠順は、駿府紺屋町の代官陣屋の米蔵を開き、
農民にこれを与えたため幕府の御科めを受けたと伝えられ、地元18ヶ村では忠順の遺徳を慕い
北郷村吉久保に伊奈神社を勧請したという。

なお、現在も地元では、伊奈神社(駿東郡小山町須走鎮座)の御祭神(忠順)が、駿東郡59ヶ村を
見守っていると固く信じられ、地域の守り神として篤く信仰されている。 

    (「 巻の5」も、乞うご期待。)

 

 伊奈家の真実・・・・巻の三




                

 伊奈家15代墓所

                    

 鴻巣の勝願寺や安行の源長寺には伊奈家累代の墓所や供養所、顕彰処がある。しかし、墓所は寺により整理統合、または他に替地もされている所もある。13代以降、現在は江戸川区の大雲寺(歌舞伎役者が多く永眠する通称、役者寺)に墓所がある。

  勝願寺藤田ご住職に依ると 、現在は忠次夫妻・忠治夫妻・の墓石が並んでいるが、もともと、忠治の墓石は、同じく勝願寺の墓地の一画にあったと伝えられている。
 12代目にあたる豊次郎の墓石は、横浜市港北区新羽町の善教寺にあったが、寺が行った墓地の整理後、散逸してしまっている。

 次に、伊奈家の祖、忠次からの墓所・戒名等を順を追って、記載する。
綾瀬に昌美印刷を構える伊奈家では、忠次を祖と仰ぎ、本家とする。そして、血統上の大元である、忠治を大先祖と敬っていることを付記しておく。
  12代以降の代は、事情により、埋葬の寺院名のみとした。

   
 

 伊奈家代々の墓所
祖(本家) 
    伊奈備前守忠次(ただつぐ)
     法名 勝林院殿秀誉源長久運大居士
     没年 慶長15年6月13日 享年61歳
     葬地 埼玉県鴻巣市本町 勝願寺
長男(本家)  
    伊奈筑後守忠政(ただまさ)
     法名 安養院殿万林一声大居士
     没年 元和4年3月10日 享年34歳
     葬地 埼玉県鴻巣市本町 勝願寺(伝聞)
次男(分家)= 伊奈半左衛門家先祖(大先祖)
    伊奈半十郎忠治(ただはる)
     法名 長光院殿東誉源開大居士
     没年 承応2年6月27日 享年60歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
            後、勝願寺に移す。
     生前寿陵として、忠次と同寸の墓石を建立してあったものが、
     現在の墓石。よって、忠次と並んで残っている由縁である。
2代 伊奈半左衛門忠克(ただかつ)
     法名 月光院殿法誉常心栄了大居士
     没年 寛文8年8月14日 享年49歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
3代 伊奈半十郎忠常(ただつね)
     法名 法性院殿空誉徹直大居士
     没年 延宝8年(1680)1月4日 享年33歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
4代 伊奈半十郎忠篤(ただあつ)
     法名 法玄院殿本誉守正覚心大居士
     没年 元禄10年(1697)10月19日 享年29歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
5代 伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)
     法名 嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士
     没年 正徳2年(1712)2月29日 享年42歳
     没地 関東郡代屋敷にて切腹にて亡
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
6代 伊奈半左衛門忠達(ただみち)
     法名 治興院殿民誉擁衙心大居士
     没年 宝暦6年(1756)1月17日 享年67歳
     葬地 江戸深川 玄信寺
7代 伊奈半十郎忠辰(ただとき)
     法名 寛柔院殿教誉令行利民大居士
     没年 明和4年(1767)10月15日 享年67歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
8代 伊奈備前守忠宥(ただおき)
     法名 忠宥院殿前備州勅吏三誉源考恕心大居士
     没年 安永元年(1772)8月25日 享年67歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
9代 伊奈半左衛門忠敬(ただひろ)。柳沢美濃守吉保の孫。
     法名 蒼雲院殿調誉応山霊響大居士
     没年 安永7年3月12日 
     葬地 埼玉県赤山 源長寺
10代 伊奈半左衛門忠尊(ただたか)。備中松山藩の板倉家11男。
     法名 広告院殿山崇運社斉忠尊民和大居士
     没年 寛政6年8月19日 
     没地 南部藩江戸屋敷に於いて卒。享年31歳
     葬地 駒込 吉祥寺(板倉家墓所の傍らに葬られる。とある。)

11代 伊奈半左衛門忠善(ただよし)
     法名 忠善院殿深誉心照彗源大居士
     没年 文化4年7月22日 
     没地 柳沢家下屋敷「染井の屋敷」に於いて卒。享年35歳
     葬地 埼玉県赤山 源長寺      

12代 伊奈豊次郎   葬地 横浜市港北区 善教寺    
13代 伊奈源蔵    葬地 江戸川区瑞江 大雲寺
14代 伊奈源太郎   葬地 江戸川区瑞江 大雲寺
15代 伊奈 清     90歳
      内・洲美江  葬地 江戸川区瑞江 大雲寺
16代 伊奈勢治    62歳
17代 伊奈寛貴    40歳

            

伊奈家の差配について

                    

  伊奈家の初代、伊奈半十郎忠治は、関東郡代(関八州の直轄地を差配)として、60万石にも及ぶ支配であったが、以後累代30万石前後の支配を世襲している。ちなみに、郡代職は全国に4ヶ所設置されており、関東・美濃・西国・飛騨であった。飛騨の郡代屋敷は、現在観光スポットとしても知られている。 

飛騨郡代について

 飛騨といえば、元は金森氏の領有の城下町で、初代高山城主金森長近の飛騨領有は、天正14年(1586)から始まり、元禄5年(1692)まで約105年間続いたが、元禄5年6代頼嵩(よりとき)の時代、故あって将軍徳川綱吉に、山形県、上の山に移封を命ぜられ、金森氏の領国から幕府の直轄地となり、伊奈家4代目関東郡代伊奈忠篤が、飛騨代官兼務を命ぜられ、 金森氏の下屋敷を代官所に定めた。これが高山陣屋のはじまりである。
  元禄5年より元文3年(1739)まで、代官(郡代)は、江戸に定住し、年に一度、現地に出張して、年貢の沙汰につとめ、訴訟などを決裁する習わしであったが、代官(郡代)は、元文4年以降、陣屋に常駐することを命じられ、慶応4年(1868)最後の郡代まで続いた。 
  伊奈家は、4代目忠篤・5代目忠順・6代目忠達まで、飛騨代官(初代・2代・3代)兼務を23年間にも渡って勤めた。以後、4代目として森山実造が着任。25代まで177年間飛騨の行政府となったのが、この高山陣屋である。

 

高山城の明け渡しについて

                    

  城の明け渡しと云えば、「時は元禄15年」、『忠臣蔵』が連想され、城を枕に一戦交えるか、無血開城するかと、紛々とした話も有名。同じ頃の元禄5年に行われたのが、前述の金森氏の居城、高山城の明け渡しである。
  さて、高山城の明け渡しについての状は『飛騨國代官・郡代記』などに詳 しいので、ご参考の一助として載させて頂きます。


 【元禄5年8月4日】
金森家、出羽上の山へ移封を命ぜられ、城主出雲守頼嵩、高山出発に際し、
百姓の見送りを止めさせた。
 【元禄5年8月18日】
  伊奈半十郎忠篤は、飛州代官兼務を命ぜられ、この日政務取り扱い方条々を 上司に伺う。
 【元禄5年9月朔日】
伊奈半十郎忠篤は、飛州高山城請け取りを命ぜられる。浅野伊左衛門正氏、
同・目付けを命ぜられる。
 【元禄5年9月23日】
伊奈半十郎忠篤は、飛州高山に到着。 同日、城番を命ぜられた、金沢藩士・永井織部一行も到着。
 【元禄5年12月6日】
  伊奈代官、高山を発し、江戸へ向う。家来衆150名、高山陣屋を後にする。
 【元禄5年12月28日】
伊奈半十郎忠篤は、目付け役の浅野伊左衛門正氏と共に江戸城に登城。高山城の城請け取りに関し、無事任務を果たした旨、将軍に上奏。
爾後、元禄8年(1695)には幕府の命によって、高山城は金沢藩の500名が動員されて完全に破却。城跡には盛時の景観を示す物は殆ど残っていない。

 

伊奈家の事業について

                    

  伊奈家は代々民政・農政を中心にしていたので、農地改革、河川修治の仕事も多く、その主な仕事としては、利根川を東京湾から太平洋(銚子)に流し替えるなど、3代、60余年に及ぶ大事業を成し遂げている。
  更に、玉川上水開削工事の奉行、千住大橋や永代橋などの架橋工事、江戸周辺の関所管理、街道整備等も担当した。また、将軍の鷹狩、鷹場の管理等も仕事の一つであった。
  綾瀬においても、匠橋から伊藤谷橋間の綾瀬川開削工事を奉行し、現在の古隅田川もまたその工事には伊奈氏のお世話になっている。綾瀬3−9辺りに架かっていた石製の橋、円心橋なども、木製の橋が何度も流されて不便を強いられたので、地元の嘆願により、関東郡代の伊奈氏が1790年頃に架け替えたという因縁がある。

 

伊奈家発展の事について

                    

 『太平記』に出てくる、足利氏を支えた、荒川姓の家が伊奈氏の源流である。室町時代9代将軍足利義尚(日野富子が活躍した頃)から信州の伊那の地を拝領。以後、その処を拠点とした。姓も荒川から土地に準じて伊奈姓に変えたという。
  更に玉川上水開削工事の奉行、千住大橋や永代橋などの架橋工事、江戸周辺の関所管理、街道整備等も担当した。また、将軍の鷹狩、鷹場の管理等も仕事の一つであった。
  綾瀬においても、匠橋から伊藤谷橋間の綾瀬川開削工事を奉行し、現在の古隅田川もまたその工事には伊奈氏のお世話になっている。綾瀬3−9辺りに架かっていた石製の橋、円心橋なども、木製の橋が何度も流されて不便を強いられたので、地元の嘆願により、関東郡代の伊奈氏が1790年頃に架け替えたという因縁がある。
 
  室町末の戦国時代、伊奈一族の多くが武家を捨て、大阪など関西方面に移り住み、商人に身を変えた人が多かったが、綾瀬の伊奈さんが、祖と仰ぐ、伊奈備前守忠次は、父忠家と共に徳川家康の父である、松平広忠に従い、譜代の直参旗本として、10代忠尊(ただたか)まで表舞台で活躍するのである。
  特に、秀吉の指示による関東移封の時などは、伊奈氏以外の譜代の武将は湿地帯が多い関東に入るべきではないと主張したが、土木治水関係を得意とした伊奈氏は、ただ一人、関東の土地柄を踏まえて、今後の開墾による莫大な関東平野の新田開発により、徳川家の発展が見込まれると主張して、家康に秀吉の命に従い、関東に下ることを進言したと云われている。結果、1590年江戸御打入となり、この8月1日を御打入記念日として、式日(登城して将軍に祝儀を言上する日)の一つに定めたほどであった。そして、伊奈忠次は、代官頭となり、河川改修や新田開発などの農政を司り、善政を布き、幕府の屋台骨を支え続けたのである。

 ◎巻の4はいつ?・・乞う、ご期待!!!!





 伊奈家の真実・・・・巻の一


                

まず、伊奈家について

                    
  綾瀬2丁目で印刷業を営む、伊奈清氏の系譜については既に「氏子通信」で紹介させていただきましたが、伊奈家の歴史的なことを更に詳しく聞いてみたいという話がいろんなところから出てきまして、この度、当の伊奈氏本人の監修も頂き、数回に別けて、更に掘り下げて発表する事になりました。

 
さて先月(08年5月)には前進座の公演で伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)を扱った「怒る富士」が上演され、大変な好評を博しました。
  その伊奈家の事に関して歴史公証など忠実に調査されての舞台であったことが、よく伺われました。例えば伊奈家の家紋です。正しくは「右二つ巴」なのですが、逆の「左二つ巴」を掲載する、刊行物を多く散見します。

  又、かつて上演された「ふゆみそう」という同じく伊奈家を題材にした、芝居もあり、民衆が「神様・仏様・伊奈様。」という場面が何度も出て来るなど、一般民衆の信望の厚さが伺われるシーンでした。
 
  江戸時代の一識者が「伊奈家と申せば、百姓は勿論、町人に至る迄、神仏之様に敬ひ申候。」 (『寛正四子覚書』国立公文書館所蔵)と述べていたように「伊奈半左衛門」の名は、当時から一般民衆の信望をあつめており、広く知れ渡っていたのである。

【画像:前進座5月国立劇場公演の「怒る富士」のプログラム】

 

   綾瀬の伊奈氏は伊奈忠順の血統上直系!!

さて、伊奈家を始め各地の大名家でもそうですが、苗字だけをとりますと、血統上・銘跡(みょうせき、註を参照)上・本家や分家など諸派に分かれるものです。今回からご紹介する、綾瀬の伊奈さんは、伊奈忠善(ただよし)に血脈がつながる家系の方で、前進座の公演で取り上げられた、伊奈忠順の血統上直系にあたります。よくテレビ等の時代劇で散見する、郡代様とか関東郡代巡検ご一行様
は、この伊奈氏の代々の当主であって、悪代官を懲らしめて庶民の窮状を救う正義の味方として、凛々しく駿馬鞍上にあって颯爽と登場する事が多い。

 多くの書物では、伊奈忠次(ただつぐ)を初代とカウントする事が多いようですが、これは伊奈半左衛門の姓字・銘跡を見ているものです。と、いいますのも、 忠次の跡を継いだ、長男、忠政(ただまさ)は、幕府の大番頭(侍大将)をつとめていたが、34歳にして病死され、家督は次男である、忠治(ただはる)が継ぎました。その血統が、代々伊奈家の半左衛門として引き継がれていくことになっ
たのですが、忠善の代を限りに、銘跡を継いだ、忠盈(ただみつ)は、忠治の三男忠重(ただしげ)の子孫です。当然ながら、忠次の長男であった忠政の家系は、血統上の子孫も歴然としておられます。

 関東郡代の職を継承してきた伊奈姓の子孫は、血筋のみを正しくみれば、綾瀬の伊奈さんとするべきであり、それ故、忠次を祖と仰ぎ、伊奈忠治を初代と数えている訳です。以下綾瀬・伊奈氏の系譜は以下の通りです。

 

   これが綾瀬の伊奈氏の系譜

忠次(ただつぐ)、備前守
初代 忠治(ただはる)、半十郎
2代 忠克(ただかつ)、半左衛門
3代 忠常(ただつね)、半十郎
4代 忠篤(ただあつ)、半十郎
5代 忠順(ただのぶ)、半左衛門
6代 忠達(ただみち)、半左衛門
7代 忠辰(ただとき)、半十郎
8代 忠宥(ただおき)、備前守
9代 忠敬(ただひろ・柳沢家婿)、半左衛門 = 豊
10代 忠尊(ただたか・板倉家婿)、右近将監 = 美喜
11代 忠善(ただよし)、半左衛門、9代忠敬の実子
12代 豊次郎
13代 源蔵
14代 源太郎
15代 清(菅原家婿)= 洲美江
16代 勢治
17代 寛貴



 伊奈家の真実・・・・巻のニ

「伊奈家の真実・巻2−8」

伊奈家について
                

伊奈家について

                    
 
  綾瀬で昌美(印刷業、書道用品販売業)を営む伊奈さんが祖と仰ぐ、伊奈備前守忠次(ただつぐ)という人は、徳川家康の下で関東の地方長官とも云われた幕府の代官頭として、幕領を支配し、全国的に「備前検地」と云われる検地奉行も務めた人で、「備前掘」、「備前堤」という名が各地に残っているのは、伊奈備前守忠次の功績を称えてのことだと云われている。

  忠次の長男、筑後守忠政(ただまさ)は徳川幕府の大番頭(侍大将)として家康に従い、大阪冬の陣などで活躍した人であったが、34歳の若さで病死した時、子供が幼少であったことにより改易となりました(血統は継がれていった)。その為、代官頭の職は、忠次の次男、半十郎忠治(ただはる)が引き継いだのである。
 
  代官頭の名称は4代忠篤の時に、関東郡代と改められた。関東郡代伊奈氏は半十郎忠治を初代として十代忠尊まで続いたが、右近将監・忠尊の代に家事不行き届きの故あって、200年続いた関東郡代の世襲家は改易となりま した。
【画像:伊奈家に嘆願して、木橋から石橋に架け替えられ、現在の綾瀬3丁目付近にあった円心橋の名残石で、神社の副総代長・大室康一家に残されています】

                

伊奈家の差配について

                    

  伊奈家の初代、伊奈半十郎忠治は、関東郡代(関八州の直轄地を差配)として、60万石にも及ぶ支配であったが、以後累代30万石前後の支配を世襲している。ちなみに、郡代職は全国に4ヶ所設置されており、関東・美濃・西国・飛騨であった。飛騨の郡代屋敷は、現在観光スポットとしても知られている。 

飛騨郡代について

 飛騨といえば、元は金森氏の領有の城下町で、初代高山城主金森長近の飛騨領有は、天正14年(1586)から始まり、元禄5年(1692)まで約105年間続いたが、元禄5年6代頼嵩(よりとき)の時代、故あって将軍徳川綱吉に、山形県、上の山に移封を命ぜられ、金森氏の領国から幕府の直轄地となり、伊奈家4代目関東郡代伊奈忠篤が、飛騨代官兼務を命ぜられ、 金森氏の下屋敷を代官所に定めた。これが高山陣屋のはじまりである。
  元禄5年より元文3年(1739)まで、代官(郡代)は、江戸に定住し、年に一度、現地に出張して、年貢の沙汰につとめ、訴訟などを決裁する習わしであったが、代官(郡代)は、元文4年以降、陣屋に常駐することを命じられ、慶応4年(1868)最後の郡代まで続いた。 
  伊奈家は、4代目忠篤・5代目忠順・6代目忠達まで、飛騨代官(初代・2代・3代)兼務を23年間にも渡って勤めた。以後、4代目として森山実造が着任。25代まで177年間飛騨の行政府となったのが、この高山陣屋である。

 

高山城の明け渡しについて

                    

  城の明け渡しと云えば、「時は元禄15年」、『忠臣蔵』が連想され、城を枕に一戦交えるか、無血開城するかと、紛々とした話も有名。同じ頃の元禄5年に行われたのが、前述の金森氏の居城、高山城の明け渡しである。
  さて、高山城の明け渡しについての状は『飛騨國代官・郡代記』などに詳 しいので、ご参考の一助として載させて頂きます。


 【元禄5年8月4日】
金森家、出羽上の山へ移封を命ぜられ、城主出雲守頼嵩、高山出発に際し、
百姓の見送りを止めさせた。
 【元禄5年8月18日】
  伊奈半十郎忠篤は、飛州代官兼務を命ぜられ、この日政務取り扱い方条々を 上司に伺う。
 【元禄5年9月朔日】
伊奈半十郎忠篤は、飛州高山城請け取りを命ぜられる。浅野伊左衛門正氏、
同・目付けを命ぜられる。
 【元禄5年9月23日】
伊奈半十郎忠篤は、飛州高山に到着。 同日、城番を命ぜられた、金沢藩士・永井織部一行も到着。
 【元禄5年12月6日】
  伊奈代官、高山を発し、江戸へ向う。家来衆150名、高山陣屋を後にする。
 【元禄5年12月28日】
伊奈半十郎忠篤は、目付け役の浅野伊左衛門正氏と共に江戸城に登城。高山城の城請け取りに関し、無事任務を果たした旨、将軍に上奏。
爾後、元禄8年(1695)には幕府の命によって、高山城は金沢藩の500名が動員されて完全に破却。城跡には盛時の景観を示す物は殆ど残っていない。

 

伊奈家の事業について

                    

  伊奈家は代々民政・農政を中心にしていたので、農地改革、河川修治の仕事も多く、その主な仕事としては、利根川を東京湾から太平洋(銚子)に流し替えるなど、3代、60余年に及ぶ大事業を成し遂げている。
  更に、玉川上水開削工事の奉行、千住大橋や永代橋などの架橋工事、江戸周辺の関所管理、街道整備等も担当した。また、将軍の鷹狩、鷹場の管理等も仕事の一つであった。
  綾瀬においても、匠橋から伊藤谷橋間の綾瀬川開削工事を奉行し、現在の古隅田川もまたその工事には伊奈氏のお世話になっている。綾瀬3−9辺りに架かっていた石製の橋、円心橋なども、木製の橋が何度も流されて不便を強いられたので、地元の嘆願により、関東郡代の伊奈氏が1790年頃に架け替えたという因縁がある。

 

伊奈家発展の事について

                    

 『太平記』に出てくる、足利氏を支えた、荒川姓の家が伊奈氏の源流である。室町時代9代将軍足利義尚(日野富子が活躍した頃)から信州の伊那の地を拝領。以後、その処を拠点とした。姓も荒川から土地に準じて伊奈姓に変えたという。
  更に玉川上水開削工事の奉行、千住大橋や永代橋などの架橋工事、江戸周辺の関所管理、街道整備等も担当した。また、将軍の鷹狩、鷹場の管理等も仕事の一つであった。
  綾瀬においても、匠橋から伊藤谷橋間の綾瀬川開削工事を奉行し、現在の古隅田川もまたその工事には伊奈氏のお世話になっている。綾瀬3−9辺りに架かっていた石製の橋、円心橋なども、木製の橋が何度も流されて不便を強いられたので、地元の嘆願により、関東郡代の伊奈氏が1790年頃に架け替えたという因縁がある。
 
  室町末の戦国時代、伊奈一族の多くが武家を捨て、大阪など関西方面に移り住み、商人に身を変えた人が多かったが、綾瀬の伊奈さんが、祖と仰ぐ、伊奈備前守忠次は、父忠家と共に徳川家康の父である、松平広忠に従い、譜代の直参旗本として、10代忠尊(ただたか)まで表舞台で活躍するのである。
  特に、秀吉の指示による関東移封の時などは、伊奈氏以外の譜代の武将は湿地帯が多い関東に入るべきではないと主張したが、土木治水関係を得意とした伊奈氏は、ただ一人、関東の土地柄を踏まえて、今後の開墾による莫大な関東平野の新田開発により、徳川家の発展が見込まれると主張して、家康に秀吉の命に従い、関東に下ることを進言したと云われている。結果、1590年江戸御打入となり、この8月1日を御打入記念日として、式日(登城して将軍に祝儀を言上する日)の一つに定めたほどであった。そして、伊奈忠次は、代官頭となり、河川改修や新田開発などの農政を司り、善政を布き、幕府の屋台骨を支え続けたのである。

 ◎巻の3へ続く・・乞う、ご期待!!!!





 伊奈家の真実・・・・巻の一


                

まず、伊奈家について

                    
  綾瀬2丁目で印刷業を営む、伊奈清氏の系譜については既に「氏子通信」で紹介させていただきましたが、伊奈家の歴史的なことを更に詳しく聞いてみたいという話がいろんなところから出てきまして、この度、当の伊奈氏本人の監修も頂き、数回に別けて、更に掘り下げて発表する事になりました。

 
さて先月(08年5月)には前進座の公演で伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)を扱った「怒る富士」が上演され、大変な好評を博しました。
  その伊奈家の事に関して歴史公証など忠実に調査されての舞台であったことが、よく伺われました。例えば伊奈家の家紋です。正しくは「右二つ巴」なのですが、逆の「左二つ巴」を掲載する、刊行物を多く散見します。

  又、かつて上演された「ふゆみそう」という同じく伊奈家を題材にした、芝居もあり、民衆が「神様・仏様・伊奈様。」という場面が何度も出て来るなど、一般民衆の信望の厚さが伺われるシーンでした。
 
  江戸時代の一識者が「伊奈家と申せば、百姓は勿論、町人に至る迄、神仏之様に敬ひ申候。」 (『寛正四子覚書』国立公文書館所蔵)と述べていたように「伊奈半左衛門」の名は、当時から一般民衆の信望をあつめており、広く知れ渡っていたのである。

【画像:前進座5月国立劇場公演の「怒る富士」のプログラム】

 

   綾瀬の伊奈氏は伊奈忠順の血統上直系!!

さて、伊奈家を始め各地の大名家でもそうですが、苗字だけをとりますと、血統上・銘跡(みょうせき、註を参照)上・本家や分家など諸派に分かれるものです。今回からご紹介する、綾瀬の伊奈さんは、伊奈忠善(ただよし)に血脈がつながる家系の方で、前進座の公演で取り上げられた、伊奈忠順の血統上直系にあたります。よくテレビ等の時代劇で散見する、郡代様とか関東郡代巡検ご一行様
は、この伊奈氏の代々の当主であって、悪代官を懲らしめて庶民の窮状を救う正義の味方として、凛々しく駿馬鞍上にあって颯爽と登場する事が多い。

 多くの書物では、伊奈忠次(ただつぐ)を初代とカウントする事が多いようですが、これは伊奈半左衛門の姓字・銘跡を見ているものです。と、いいますのも、 忠次の跡を継いだ、長男、忠政(ただまさ)は、幕府の大番頭(侍大将)をつとめていたが、34歳にして病死され、家督は次男である、忠治(ただはる)が継ぎました。その血統が、代々伊奈家の半左衛門として引き継がれていくことになっ
たのですが、忠善の代を限りに、銘跡を継いだ、忠盈(ただみつ)は、忠治の三男忠重(ただしげ)の子孫です。当然ながら、忠次の長男であった忠政の家系は、血統上の子孫も歴然としておられます。

 関東郡代の職を継承してきた伊奈姓の子孫は、血筋のみを正しくみれば、綾瀬の伊奈さんとするべきであり、それ故、忠次を祖と仰ぎ、伊奈忠治を初代と数えている訳です。以下綾瀬・伊奈氏の系譜は以下の通りです。

 

   これが綾瀬の伊奈氏の系譜

忠次(ただつぐ)、備前守
初代 忠治(ただはる)、半十郎
2代 忠克(ただかつ)、半左衛門
3代 忠常(ただつね)、半十郎
4代 忠篤(ただあつ)、半十郎
5代 忠順(ただのぶ)、半左衛門
6代 忠達(ただみち)、半左衛門
7代 忠辰(ただとき)、半十郎
8代 忠宥(ただおき)、備前守
9代 忠敬(ただひろ・柳沢家婿)、半左衛門 = 豊
10代 忠尊(ただたか・板倉家婿)、右近将監 = 美喜
11代 忠善(ただよし)、半左衛門、9代忠敬の実子
12代 豊次郎
13代 源蔵
14代 源太郎
15代 清(菅原家婿)= 洲美江
16代 勢治
17代 寛貴

 

   伊奈家11代目以降は

伊奈家11代目以降は改易による煽りから、伊奈半左衛門の誉れ名は、前述の通り、伊奈家末家であるところの伊奈忠治の三男忠重の家筋の忠盈が相続して、石高千石で旗本に参画した。これは、伊奈家改易の中、徳川幕府が「半左衛門」の誉れ名を惜しみ、また、関東郡代伊奈氏への同情と農民の人望が厚いが為、民政への影響なども考えてという政治的な配慮もあってのことであった。
  11代目からは銘跡の相続家となった忠盈の系譜と上記の通りの血統上の系譜と二つの流れがそれぞれに続いてきたのである。最近刊行される「伊奈氏系図」などでは、綾瀬の伊奈氏の系譜を並列表記することも多くなり、伊奈家9代忠敬の実子である、11代忠善の血統上の子孫の存在が全国の諸先生方に認知され始めている処である。
  又、東伊奈・西伊奈というような分類もまた、学術上はなんら意味も無いことであって、分類上出てきたというようなもので、東西に該当する伊奈家も違っていたりしており、伊奈姓の多くは関知しない事柄だという。多くの伊奈姓の方々も関東郡代(代官頭)有縁の家柄であることも事実である。埼玉県川口市で、開催される「伊奈サミット」や赤山「源長寺」の伊奈家墓所での先祖供養の時、伊奈姓の方々の参加があるのである。 

 

   伊静岡も伊奈神社に伝わる口伝とはなにか?

 静岡県の伊奈神社では、口伝としてきた話に
  「
伊奈半左衛門は小柄な方で、馬は家来に引かせて、本人は歩いて巡検された」という。
  当時は三十代の若さだったからだろうが、よく動くお殿様で身なりは質素。とてもすぐにはお殿様には見えない様子であったという。やはり、火急の駿東郡を差配する代官として庶民レベルの目線と行動力を持ち合わせていたという表れだと思われる。
  この伊奈神社の祭典に綾瀬の伊奈さんが参列された時に氏子代表が言い伝えで
「小柄なお殿様だったと聞かされてきたが、言い伝えは本当だったんですね」
  と開口一番話されたという。前進座公演でも綾瀬の伊奈さんにご挨拶があり、主役の方々との面談もあったというお話だ。
 
  5代伊奈半左衛門(忠順ーただのぶー)を御祭神として祀る駿東郡小山町の吉久保に鎮座する水神社は、古い歴史を有し、5地区(5ヶ村)が輪番で祭典奉仕している。伊奈氏を祭る神社はどこかと言えば、地元ではこの社を指すのである。春4月29日か秋11月3日を祭典日として、年番にあたった村の衆議により、どちらかに斎行され、多くは光のどかな春に祭りが執行されている。
  同じく駿東郡小山町の須走に鎮座する伊奈神社の沿革についても以下」の通り。 御祭神は、伊奈半左衛門忠順で小祠創始は慶応3年という。明治40年10月、須走字西の沢に伊奈神社として創建されており、昭和32年、現在地に新社殿を建立し、また、御殿場にあった伊奈半左衛門像(彫刻家堤達男氏の作)は平成元年に、神社境内へ移設され当今に至っている。
 
 

 

   なぜ5代忠順はまつられたのか?

  人霊を祭る神社というものは、多くその人の勲功を顕彰するに於いて建立される。小山町の両神社は5代忠順を祀るが、これは駿東郡一帯が宝永4年(1707)11月23日の富士山の大噴火(12月8日まで続いた)により、壊滅的打撃を受けた折の関東郡代忠順の事後処理の功績を称えるものである。
 
  遠く江戸に迄降灰したという火山灰や軽石は駿東郡一帯に多い所では3mも堆積したという。その除去作業に30年の歳月がかかった地区もあったほど被害は甚大であった。その中、幕府の裁可は、駿東郡59ケ村は復興が望めないとして亡所(ぼうしょ・すてられた土地)とされた。つまり幕府の救援がほとんどない地区にされてしまった。更に翌年6月や正徳元年7月には洪水もあり、駿東郡村民は益々困窮を極めた。

 その時、人々の為に駿府紺屋町のお蔵米を配給したり、寝食をともにして難事にあたるなど民政を断行したのが、祭神となる忠順であった。そのお陰で須走地区は2年にして見事に復興、富士行者を迎える宿場を作ることが出来たのである。

  その後、亡所政策は改められ、幕府の支援が駿東郡一帯に出るようになったのである。かような次第で、特に須走地
区は、伊奈氏を神様のように崇め、いわゆる、「神様、仏様、伊奈様」という有名な文句が流布され、忠順の没後に小祠を建立、篤く信仰してきたのである。
  現在でも地元では、御祭神が今も駿東郡59ケ村を見守ってくれていると固く信じられているのである。

(・・・・・いよいよ「巻のニ」につづく)
 



[註]
「銘跡(みょうせき・名跡とも)
  ・・・人の美徳を残す時に使われる。名字の跡目を受け継ぐこと。
     家名を継ぐ事であり、嗣子・養子とは違うもの。」




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