最終更新日13/03/17
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綾瀬稲荷のパワースポット・1 ・・西の椎の木(一ノ鳥居の左手・入口の所) |
![]() 御神木のタブの木は生命力と豊穣のシンボルです。 「生命力」「気」を感じ取って、体内に取り入れ、豊かな心身に清めてください。 神社の境内の東南に位置し、古来盗難除け・不幸除けに霊験あらたかだと言われてきております。
◎詳しくはこの下に更に詳しく書いていてあります。 |
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綾瀬稲荷神社の西の椎の木(2) |
神社の古木の椎、「三又の椎」(古称は身成る椎)は、毎秋実つけ、成る実は小粒ながら美味しいと評判をとってきたが、古来その実を受けて自宅に植えてもなかなか芽吹かなく、例え芽が出ても成長は遅く、不思議と結実しないという言い伝えがある。 また、この椎の実は、「実成る」→「身成る」といい、弁才天の巳年財物の話と同じで、盗難除け・お金が身につき長者に成るという話もあり、事実、昔の人は、三又の椎(身成る椎)の巳年の実(巳なる実)は、身巳実の三つの「み」が重なり、ご利益は甚大で特別珍重されたというお話だ。 |
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さてさて、木の実の霊効発動について一言。つまり、財布に実を入れる場合には、どうするのかというと、巳年の秋に実を受けておいて、翌年正月その実を清拭きした後、神棚に供え置き、春先に財布(これも札を入れる二つ折のがベストらしい)に入れる慣わしだという。 |
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首のない狐像が消えた! |
それは平成19年6月のこと。唐松さんのところに地元の建築業者さんからお祓いをおして欲しいと言う依頼の電話。しかもなるべく早くという・・。 内容を聞くと現場は綾瀬1。造成中の草むらから一宇が出てきて中から首のない石の狐像が一つ。かつて首が落ちて、接続されたのが一つあったので気味が悪いからお祓いをお願いしたいということ。 |
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【画像:もう片方の狐・・・】 |
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綾瀬稲荷神社の西の椎の木 |
神社に古木の椎は3本あって、南の椎(池の椎)は昭和10年代に枯損。東の椎(神木の椎・蛙の椎とも云う)は、昭和30年頃に損なわれた。神社一ノ鳥居の傍らに樹齢約2百年といわれる、西の椎(鳥居本の椎)だけが現存する。樹高1メートル位のところで、3本に分かれていた為、「三又の椎」と呼ばれた。そのうちの東側の幹一本は既に失われ、二又になっており、老境著しい感を漂わせている。 |
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お稲荷さんのお使い「キツネ」達のお話(3) ・・庭の樹木におキツネさまの顔が・・・・。 |
古来よりお稲荷さんを篤く信仰し、「二の午日」を祭日として邸内にお稲荷さんの神祠を祀るお宅が綾瀬にある。昨平成17年の9月7日の初午日、祠の前にある木の枝打ちをしたところ、なんとキツネの顔に見える線が出てきたという。驚いた植木屋さんから伝え聞いた家主達も見てビックリしたとか。 落書きした痕かもということで親戚にも尋ねたが、子供の頃、他の木に自分の名前を刻んだことはあるが、そのような場所しかもキツネの絵なんて誰1人として書いていないということだったらしい。 |
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今でも夢のお告げで出るお稲荷さんお使いキツネ2題・その1 ・・・・・・・・・「鈴緒を買うように出てきた神狐」 |
ある綾瀬の氏子さん宅では、古来よりお稲荷さんを祭り、赤い社と赤い鳥居を立て替えごとに踏襲して、今日に至っているお家がある。当然お鈴の房も紅白を例とし、先の当主夫婦が出雲大社で買い求めた物を下げていた。なにぶん古くなっていたのだが、記念の品なので交換出来ずにいた。 すると綾瀬3丁目に嫁いで行った娘さんは「鈴緒は前から気になっていたのだけれど嫁に出た者が差し出がましい事をしてはいけない」と思っていたが、神官さんがお稲荷さんの為にする良いことであれば、気にせずしたらいいといわれたことで勇気づけられたそうだ。更に平成18年2月のある日、ぼんやりとではあるが、キツネの夢のお告げがあり、 「今年の初午までに鈴と鈴緒を買うよう」 にと言われたので初午の前日に程よい寸法のお鈴と鈴緒を買いに行き、奮発して一番良い、1万5千円の品を購入した。 そして神官さんが実家の初午に行く時に付け替えてほしいと初午の日の早朝、神社に持参されたのだった。しかし「親がダメと言ったら辞めて下さい」とも言われ了解をした。その鈴と鈴緒を受け取り、お宅に行き、娘さんの両親に説明すると快く古い物と交換して下れた。 【鈴と鈴緒代1万5千円・・同じ額を知り合いがくれて!ビックリ】 夕方、その娘さんがまた来て「交換してくれたそうでありがとうございます」とお礼を言った後、 「お稲荷さんて不思議なことあるのね」と言ったのだった。 どうしましたと伺うと「親はダメと言うと思っていのに交換してくれた事にまず驚いた」という一点と「今日のお昼過ぎ、知人が来て、いつもお世話になっているからとお金を置いて行った人がいて、それが15,000円なの。普段お金を出すような人じゃないのに、もう鈴買ってきたお金と同額だから変に怖くなっちゃって、神官さんに報告しないといけないと思って来ました」ということだった。 「お稲荷さんって、こういうことあるのね」と・・のたまうこと3度。再拝 |
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今でもホントに出るお稲荷さん、お使いキツネの話・その1 ・・・・・「狐、白ヘビ、ネズミがドンチャカ騒ぎをする夢・・果たしてその意味は?」 |
お稲荷さんのお使いは、古来キツネであり、霊格の差異も様々でローカル色もあるという。綾瀬に出る神狐は、信仰厚い人に出現することが古来多いようだ。 昨平成17年12月23日ある人の夢に出てきた。それは、信仰心厚い人がお稲荷様を手厚く祀る中で、そのお手伝いをした人に出てきたのである。 ある綾瀬のお宅のお稲荷さんでは祝祭が予定され、準備万端整っていた。その請負の方が見た夢と言うが「まず狐が出てきて賑やかに楽しそうにワイワイやっていると次第に白い蛇やネズミ、さらにはイタチみたいなのまで出てきて、みんなでドンチャン騒ぎしている不思議な夢だった」そうだ。 その請合った人は「こんな夢は見た事ないのでどういうことなのか?」と思っていたそうだ。お稲荷さんの仕事に少し携わっただけだったので24日のお祭に参列するようにという指示を受けての参加で当日来て内祝いのお祭と知り、更に眷属のキツネたちのお供えとしていなり寿司が50個と御酒が小瓶ながら沢山供えてあったので、それを見て初めて合点がいって、皆に昨晩の夢を披露して 「向こうの世界のお稲荷さんを始め、おキツネさんたちも皆、よろこんで前祝いされていたんだろう」 ということで得心したのであった。 一同も喜び合って、お祭を始めた。家の方々の丁寧な祭事準備と心構え、併せて一同の真剣さが合間っての「ご嘉納の霊夢」であったのである。伏拝! |
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キツネの絵(王子石鍋の手提げビニール袋の画像)を添付しました。
綾瀬稲荷神社、東の椎の木のむかし話 |
【かって境内に3本あった椎の木】 神社一ノ鳥居の傍らに樹齢は不明ながら椎の古木(西の椎の木)がある。地元の古老が幼少時既に老樹であったいうことだが、清水造園の金吉さんのお話では、二百年はゆうにたっているのではとの談。これら椎の木を綾瀬の人達はどう見てきたかという昔話。今回は、東の椎の木の昔話。 神社の立ち木調査によると、21種88本あるが、椎の木は5本を数え、椎の植生から水利が切れるなど条件のよい西面に残る。伝え聞くところでは、神社に椎の古木は3本あって、境内東、南、西にそれぞれあったとか。南の椎は池の近くにあった為、水気をうけて昭和10年代に枯損。 東の椎は、昭和30年頃に損なわれた。近藤利男総代によると、この椎は地表近くに空洞ができ、樹皮のみで生きながらえていて、その空洞も年々に拡大していった。ある年に、その空洞をねぐらとする一匹の蛙が見つかった。それも空洞の拡大に比例して成長し、終には同じ位の寸法になって、入ったら身動き取れない大きさになった。 きっと椎をすみかとするこの辺のヌシだとか社殿に近いところだから神様のお使いではという噂話も出たほど近所の評判になった。しかしどこにも悪ガキがいて、ある晩に蛙をつついて面白がるなどわるさをした。その日を境に蛙はいづことなく行ってしまい、時を経ずして椎も枯れたという。神社東の椎の木の昔話。 【画像:今は1本だけになった西の椎の木】 |
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綾瀬白蛇伝説(1)・・遷座当日に白い蛇 |
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綾瀬稲荷神社の境内北地に末社・弁天社が鎮座している。この神社が遷座された夜景の祭の時に、白い蛇が出現したと伝がある。古来、白蛇は、弁天様の神使と云われているが、まさにその白い蛇がどこからともなく現れたのである。昭和30年代後半当時の実話である。 |
綾瀬白蛇伝説(2)・・綾瀬蛇塚の由来 |
こちらは朝起きたら、庭に白い蛇が息絶えていたのを発見し、丁重にその場所に亡骸を葬ったという綾瀬の渡辺本家のお話で、「綾瀬の蛇塚」 として地元では有名。昭和30年代の末の事、神社責任総代の渡辺儀仙さんのお宅の庭に、ある朝のこと、白い蛇が庭の中央になんと横たわっていた。これはまた瑞祥だと夫婦二人で打ち眺めたが、ちっとも動かないため、どうもおかしいということで、家長の儀仙さんが恐る恐る近づいて、竹の棒でつつ いてみたところ息絶えていたのが判明した。 夫婦で話し合った末、今わの際の場所に、我が家を選んでくれた事を感謝し、その息絶えた処を白蛇(みーさん)に差し上げることに決した。末代までの守り神となって頂くべく、穴を掘り丁重に埋納し、決して踏まないことを家訓とした。後日、誤りが無いように、底面一畳ほどの大巌を福島県の方から購入して、鎮めた場所の上に据え付けたのである。今も庭のど真ん中に何故か大巌が置いてある。 これが綾瀬の渡辺本家の庭のみーさん伝説である。現在の家長は娘さんの渡辺康代氏。歴史ある、綾瀬工業株式会社を引き継いでおり、先代さんからことの次第を守るように厳命されているとの談。また、先代の奥さんで康代氏の母親、トミさんが康代氏に語ったところによると、旧宅には池があって(今は無い)、汀の大岩の下は、蛇の巣になっていたこと。そして、お皿に白米を載せて、その岩の上に置くと、白い蛇が食べに来ていたとか、北隣り吉田惣本家の米倉に多くは棲んでいたみたいだが、冬眠するときには、うちの池の傍の大岩ノ下にきていたらしいとのこと。 さらに、古い家の天井裏には、大きな蛇の脱皮したあとの抜け殻があったということだが、蛇塚へ一緒に鎮祀したことが口伝として残っている。助言者は先々代宮司唐松かねひろ。綾瀬川の大水で、綾瀬地区が水浸しになったあと、周辺一帯の消毒作業の過程で、やむなく蛇塚も消毒をした。蛇塚は綾瀬川の水と消毒液のダブルパンチを受けてしまい、その後、蛇の出現はないということだが、今に名前を残す、この「綾瀬の蛇塚」(白蛇伝説の地)も、綾瀬巡りの折には、一度は参られたい。 |
落雷から守られた吉田さんの先祖 |
明治43年春、当村の吉田家(現在当主は録之眞氏)は、信心深い31才の喜春氏が家督を継ぎ、毎日、ご加護を鎮守お稲荷さんに参詣して祈ったという。ある日のこと、田んぼの苗も無事に植え終わり、一安心していた7月、庭のケヤキの大木に落雷し、火を上げて倒木し、もう村中、上を下への大騒ぎになったが、しかし屋敷や家族には全くの障りが無かった。 これを後世に語り伝える為に「雷命降り」落ちた大木を材となし、縦20、横80センチの大きさの板絵馬として、いきさつを墨書にて記し、「奇話(霊験談)の一つ」として又、無事安泰の「恩礼」として8月1日、綾瀬稲荷に奉納したのである。 またその倒木は、身代わりとなって家を守ってくれたものだから縁起が良いと木の使えるところを材料にして小菅で家具を幾つか作ったそうである。録之眞家に今もその長火鉢と茶箪笥が残っている。雷が落ちて間もなくに製作したので茶箪笥には、大きくそりが出ているが稀なる伝世品。 【これがそのケヤキで作った茶箪笥】 |
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さて、そして雷の落ちた木の跡に家を守ってくれた木魂(こだま)を祭る祠を立てた。やがて時は移り、近くの庚申塔も合せり、更にやがて今に残る地蔵堂(庚申さま)と変遷した。自宅は移ったが、その後もこのお堂は現在も分家吉田三代さん達が篤く守っている。今日目にする祠は、平成3年3月3日の申の日に、願主吉田録之眞氏他で建て替えたもの。
この一宇こそ円丈師匠がお正月にお賽銭を奮発して納めて後日不思議な形で返ってきたという霊験談のあった場所である。つまり大元を尋ぬれば、綾瀬稲荷のご利益が、明治の時代にも同じその地であった訳で、明治と平成の出来事が、お稲荷さんでつながっていたという、世紀を超えた不思議なご利益ばなし。
(資料、原案唐松氏)
人に化けるキツネのお話 |
今回はご利益ではなくキツネのお話。と言っても単なる動物園や図鑑にあるような狐ではなく、化ける狐。いにしえから今に続く中で名を成した、
霊的な、不思議だが、ほんとにあった狐の話です。(資料、原案唐松氏)
【同じ狐も見る角度でこんなに違う】 綾瀬稲荷宮司、唐松さんの家に明治初期より、伝わる狐の面、ヒノキのお面で元は能で使われていたものとのこと。製作年不詳 |
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やや上からみるとニッコリ! | やや下からみるとムッツリ! |
【きつねの語源は?】 |
【狐の大別】
◎善なる狐・・善なる狐は、神狐や白狐が代表・良い狐は、系統正しく、統制もしっかり執れている。良い狐では、どんどん霊格は向上し、 神祇にも達するともいう。しかし『延喜式』においては、白や赤の九尾狐の出現
は瑞祥の兆しの「上瑞」とある。良い狐は神社のお使いとして遣わされる白い狐。綾瀬稲荷もよく出没し、 白狐稲荷社という名でも呼ばれていた程。最近でも平成9年に当氏子、畳屋の小川さんの夢に出現したのもこの白狐!
◎悪い狐・・悪の代表は、化狐と野狐、悪なる狐は、出世欲が強く、我が我がと出て、足の引っ張り合いも激しく、てんでんバラバラ。霊的には、 百歳でその格は変化(へんげ)するといい
。悪い狐は、どんどん悪質になって古狐に進む。
【かって日本全国で出た狐たち】
北海道のまだら模様の灰黒狐 | 集団で出没悪さをした。通常は悪戯程度のものが多いが、時には人の命も奪った。明治まではドンドン出現していた。 |
駿府のうば狐 | 駿府一帯で出没した狐たち。女、主におばさんに化け、人間をだました。 |
秩父〜上州一帯で出た尾サキ狐 | 尻尾が2.3本にさけた狐。人間を化かしてイタズラをした。 |
【その他の狐たち】
伊賀上野の小女郎狐(ごじょろう) | 一匹、若い女に化けて出来てきた。 |
大和の源五郎狐 | 1匹の狐、人間のため土手の工事など、力仕事をして人のためよく働いた狐。 |
歌舞伎でも有名な源九郎狐 | 母は殺されて鼓の皮にされたため、その鼓の音を慕って人間に化けて出てきた。 |
管狐(くだぎつね) | 竹の管に入る小さな狐。京都伏見稲荷の小山の中人。化かして楽しむのでたちが悪い。多く混乱を招くので誠に悪質。 |
九尾の金赤狐 | 悪い狐の横綱格。玉藻御前の姿に化けて人々を苦しめ、成敗され、那須野が原に殺生石として今も名を留める。 |
東京では王子稲荷と浅草の三囲(みめぐり)神社の狐が有名だが、今回は三囲の狐をご紹介します
【三囲神社の「おいで狐」】 境内の茶屋のおばさんの、おいで、おいでと呼ぶ時だけ出てきてでこの名になった。その時は必ず3回まわってから来たので三囲(みめぐり)神社の由来になったとか、元禄の俳人宝井其角の句に 「初午や 狐呼出す 姥がもと」とある。 後年、この狐は故郷の奥州(仙台)に帰り、扇子に歌を上手に書き残し、その字は実に達筆であったと言う。その歌が 「月は露 露は葉くさに 宿かりてそこからここへ みやぎのの原」 下の句は、意見が分らず皆、首をかしげたが、実は奥州松島の瑞願寺に正しい歌の下の句があり、そこには「・・・それこそこれよ 宮城野の原」。 寺で詠まれた和歌を覚えそれを間違えていた。しかし読み書きもでき、水茎の跡も鮮やかだった、 そんな人に化ける狐がいたのも事実のようだ。 【三囲神社:享和2年(1802)の柔和な顔の狐。これが「おいで狐」?】 |
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鳥之海丈之助家、家伝より |
今回のお話は西綾瀬の責任総代の鳥之海丈之助氏の家伝として伝わるお話。頃は明治6年9月、この年は長雨により収穫された米など荷が滞っていた。駄賃も多くでるというので敢えて波が荒い中、荷を持ち
川舟難破の危急を救われる・・・明治6年のお話 |
鳥之海丈之助家、家伝より |
今回のお話は西綾瀬の責任総代の鳥之海丈之助氏の家伝として伝わるお話。頃は明治6年9月、この年は長雨により収穫された米など荷が滞っていた。駄賃も多くでるというので敢えて波が荒い中、荷を持ち船(高瀬船)に満載して出港した。ところがしばらくすると一転にわかに掻き曇って土砂降りの大雨、波は血のごとく赤々と渦巻き、舵も効かず、ただ波に漂び、一命を落とす覚悟もしたという。
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渦巻く赤い波ばかりを心配しながら見ていたが、ふと上をみるとなんと波間から瑞雲が現れ、よく見るとその上に御幣がヒラヒラとなび
いていた。そこで五兵衛のお稲荷さんを念じて一心に危難を救われんことを願った。 やがて しばらくすると波も収まり、きれいな日輪も出て難破を免れたというお話。この顛末を後世に残そうと、その時の状況を描き込んだ絵馬を11月神社宝前に奉納した。絵柄 は米俵を満載させ、血のような赤い波、船の前方(下流方面)には瑞雲と御幣。西側(帆の 右)に太陽を描いている。 通常の船絵馬は川船の航行安全と商売繁盛を願い、奉納するものが多いが、この絵馬は持 ち舟が難破の危機に際し、瑞雲にのった御幣が突如出現し、船の安全を見守ってくれたという事実に基づき、子々孫々にわたって神様の御恩備忘の為に奉納した実に珍しい絵馬。 【寸法は31×45cm明治6年奉納のありがた〜い船絵馬】 |
神社総代の大池さんが釣に行って・・・。 |
神社総代の大池 実さんは、大の釣り好きとして地元では有名。 特に渓流釣りがお好きなようだ。、この大池氏、ある年、鮎をやろうと、伊豆長岡
に足を伸ばして車で遠征した。 鹿野(かの)川で終日鮎釣りを楽しんだ。 釣果もまずまず申 し分なかったという。日も西に傾いたので、帰り支度をし、駐車場に戻ると、大事の
キーケースが無いのに気がづいた。 いろいろ捜したがどうしても無い。 困ったことになったと思案していたところ、来た道を戻って道々捜してみようとなった。捜し捜し川を上流に歩いていきながら、 ふと川を見ると、なんとキーケースが、プカプカ浮いて流れていた、まるで見つけて下さいとばかりに!助かったと慌てて引き上げて中を確認したところ、ちゃんと入れてあったものは間違いなく入っていた。 その中には、神社のお守りも付けてあったのでこれは綾瀬稲荷の神様のお陰だと思い、ありがたいと感謝しながら、帰路につき、綾瀬に無事に帰り、早速神社にお礼の参拝をしたそうだ。 【これがありがたい綾瀬稲荷神社のお守り】 |
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小さん師匠の不思議な体験 |
落語界の巨匠、人間国宝の柳家小さん師匠が、5月に亡くなられた。合掌!また円丈の奉納した落語狛犬の台石、「奉献」の2文字と狐の絵は小さん師匠の筆によるものだ。ホントにお世話になりました。小さん師匠は、ある宗派に深く帰依されていて。それは、小さん師匠が、まだ小学校当時、疱瘡に罹り、医者に見放された時、思い余ったお父さんが、そのお寺に行き、祈祷をして貰って全快をして以来の信心している。
そして太平洋戦争で南方の戦地で機関銃の掃射を受け、隣の兵士は即死で小さん師匠も銃弾を受けた。だが小さん師匠はいつもそのお寺で頂いた小さな真鍮製仏像の入ったお守りを肌身離さず首から掛けていていた。なんと弾は、そのお守りの仏像に命中し、小さん師匠は、奇跡的にかすり傷で済んだ。
やがて戦争が終わり、捕虜になった時、小さん師匠は
「捕虜になればこのお守りも取り上げられてしまうに違いない。 それならこれを・・」
となんとその真鍮仏像を取り出し。飲み込んでしまった。とにかく小さん師匠は、まれに見る強い運の持ち主で以来87才の長寿と落語界の大御所として幸せな人生を全うした。それは仏像を飲み込んだことで仏像と合体してしまったと言うことなのだろうか?(円丈)
北野神社の白梅だけに実・・。 |
それは昭和39年でぴったり39年前のお話。神社責任総代の金子芳雄さんが、まだ、若かりし頃。神社の末社、北野神社。天神さまと梅はつきものなのに、ここには梅の木がない。そこで梅を植えようと思いついた。あれこれと思案していたら、当時の責任総代清水賢一氏の計らいで、西綾瀬の飯泉さんの親戚が、茨城県の江戸崎町(土浦市の東隣り)に住んでいて、梅の実を採集する為の梅林を所有していたのが判った。
そしてまさにちょうど梅林を栗林に替えのため処分する一歩手前頼み込み。発起人である金子さんがスコップ持参でトラックに乗り込み、数人と共に直接貰いに行った。万一植えて枯れたら、縁起悪いので予備も7本譲り受け、全部で8本(末広がりで縁起が良いからと)貰ってきた。神社には枝振りの一番良いものを植え、他の梅は、清水さんや引き取りに行った自分たちの家の庭にそれぞれ分けて植え込んだ。
幸い運良く全部根付いたのだが、神社の天神様に献木した白梅のみが、翌年実を付けたのである。他の梅は、どういうわけか今もって全く実を付けないという。現在も境内に残る白梅は、春には花を咲かせ、続いて小さい梅の実を結ぶ。毎年見るたびに、不思議だなと思うのだそうです。今も神社では梅がなると天神様と御本社の御神前に供えている。
巳(み)年に、神社の梅の木だけが実をつけたという不思議な御利益ばなし。
その4
夢でキツネに手を乗せられた畳屋さん |
隣接の小菅4−1で仕事熱心な畳店の小川さん。平成9年5月、神社の特別な畳の製作納品を小川さんに依頼した。細かい注文も快く聞き、人の目に触れることも無い御祭神に調進する品をよく弁えて丁寧に作ってくれた。家の仕事を継ぐ継がないで悩んでいた息子さんにも、珍しい仕事だということで、見せながら少し手伝わせたそうです。
仕上がったものはすばらしい出来栄えとなった。作った本人が、自分のやって来た仕事の中でも、記憶に残る自信作で、満足のいった製品には、裏に焼印を押すのだそうで、当然ながら一枚に、印しが入っていたことは言うまでもない。
さて、その完成品を納め入れて、設置している時に、小川さんが言うには「私は狐が出るとか、そう言う事は一切信じないというか、経験が無かったが、ここのお稲荷さんの仕事をさせてもらっている間、夢に狐が出て来たてその狐が、私の左手の上に手をのせるんです。それから三日間同じ夢を見たので、不思議に感じ、家族にも話をしたところ、なんか気持ち悪いから、納品の時、神主さんに聞いてみようと話し合った」のだそうです。
小川さんは、「どんな狐か、それもよく判らないけれど上に置かれた狐の手が妙に暖かかったのだけ覚えている」と言った。唐松宮司は「それは、仕事振りを称えて。三つのご褒美を何かの形で下さるという霊夢ではないでしょうか?」といった。
それから3月ほど経って小川さんから「ぜひ神社に神主さんが座る厚畳(あつじょう)を奉納したい」と電話があり、訳を聞くと「ほんとに3つ良いことがありました。実は息子が、畳屋を継いでくれることなり、さらにずっと売れなかった飛び地の所有地が、良い値で売れることになり、その上、左手の針を使う方の腕が、ずっと痛かったのがスッカリ楽になり、宮司さんの言ったように3つ良いコトがありました」とニコニコと話していた。
今の時代、狐の夢をみること自体が不思議だし、しかも3日続けてみるのは更に不思議。そして3つの良い出来事。世の中、やはり不思議なことはあるものです。
【唐松宮司氏よりの話】
その3
円丈に起こったコト ・・35円が620円!あれはなんだったのか? |
正直、私(円丈)は参拝オタク。たまたま神社を見掛けても参拝する。この世には不思議なご利益はあると思う。しかし、それは本当に信心深い人に起こることであって、私の身の上に起こるとは思っていない。
しかし5月初旬、どうも妙なことが起こった。仕事を終えて綾瀬駅に着いたのは、夜7時台、駅からタクシーで帰ることが多いが、7時台はまだ環七が混んでて、タクシー代ばかり掛かってバカらしいと思い。バスで帰ることにした。
バスに乗る時、ポケットに手を突っ込んで全部あつめたら小銭が全部で245円、バス代210円を払ったら残り35円。そう10円玉3枚と5円玉が1枚が残った。少し困ったことは、降りたバス停近くに一ツ家稲荷がある。こう言う時は必ず軽く参拝してから帰宅する。賽銭は、どんな時も最低百円以上は上げることにしてる。ところが小銭が35円しかない!でも札を上げる勇気はない。
そこでそのバス停前の自販機でジュースを買って千円を崩そうと思い、バスを降り、自販機を見ると、なんとどれも千円札を使えないタイプ。まいったね。そこで今回は35円で勘弁して貰おうとポケットをもう一度探ったらなんと35円しかない筈なのに620円出てきた。
さっき、全部調べた時は残りの小銭は35円だった。それが620円に増えてる。すると35円が620円に変わったのか?ウソ!信じられん。まあ、良く調べなかったので実はポケットに元々620円あった。それはあり得る。しかし35円の5円玉がどこにも見当たらない。あの穴の開いた5円硬貨を他の硬貨と見間違える筈がない。するとやはり35円が620円に変わったと言うことなる。・・いやいや、信じられん。
その後、唐松宮司さんにこの話をしたら「円丈さん、以前綾瀬のお地蔵さんに百円玉がなくて、五百円玉を賽銭で上げたでしょう?そのお返しですよ!」と言われた。そうかなあ・・・?いや、やはりなにかの勘違いだと思うなあ。しかしどう言う勘違いだったのか?一体あれはなんだったのか?それは今もって分からない。それとも私はボケたのか?不思議だ。 (円丈)
「白狐の冥助とは?」 |
開拓当時より、地域鎮守の神社であり、五兵衛新田の稲荷であったところから五兵衛神社として称え仰ぎ奉られてまいりました。また明治の御代までは、よく狐が出たそうです。そして神社にも白い狐が出没しました。特に明治十九年には十一代金子佐内氏に霊告あって白狐の冥助による稲荷神の霊験がありました。これにより当社は「白狐稲荷」の別称をもっての稲荷信仰がございます。
「五兵衛新田霊験記」 |
明治18年7月、大洪水のために稲が悉く稲苗が流失し、数千名の村民を救済するために。11代金子佐内と永三郎父子を中心に氏子相寄り、討議を重ね、鎮守の稲荷神社に氏子の苦難の救われんことをいのる。佐内氏が図らずも出かけた下花輪村の稲荷神社の社前において、不思議と感得することがあったと言う。
帰参の後、鎮守の社にお礼言上し、霊徳せる御神示に従い、地方を回りて不要の稲苗を購入して、当村及び近村の荒地に植付けたところ、その年の収穫は尋常でない程の大豊作となった。稲荷の神の御神徳とお蔭により、村民数千人の難を容易に救うことができたと言う。更にこの佐内父子の篤志が府にも伝わり、木杯授かったと言うありがたい霊験談!
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